最初に使いに来たのは海部八郎君だと記憶しております。
最初に使いに来たのは海部八郎君だと記憶しております。
その次と言われると困りますけれども、要するに、海部八郎君と島田三敬君と、高畑さんも直接お目にかかったこともありますから……。
四十……(大出委員「二年の秋と言いました」と呼ぶ)正確にそこは私もわからないのです。私はもっと——四十二年の選挙が終わって、高畑さんの電話で来たのは、私は四、五月ごろに海部君が来たのじゃないかと思うのですよ。だから、秋と言われる記録があるかどうか知りませんが、私の印象は、選挙が終わって二、三カ月して高畑さんが、海部君を差し上げるから会ってくれと言われたのは、少なくとも四、五月か六、七月じゃなかったかと思いますね。それは、必ずしも私は明快じゃありません。
高畑さんの私に対する趣旨は、恐らく海部八郎君はあの時代、次の社長候補です。高畑さんの子飼い、子供同然である。それが私に対する紹介です。したがって、恐らくあの当時の社内の状況は社長候補でしょうね。航空機部の部長ではなしに、社長候補として私に紹介を受けた、これは私の認識は少しも変わっておりません。
長いことあなたとは防衛問題で議論して、非常にお詳しい。いまのおっしゃることは全部そのとおり。一点違います。空幕長の在任は約二年経過していました、そのとき。海幕長も二年経過しているのです。陸幕長は一年半です。二年経過するというのは交代の時期なんです。陸幕長だけ、実は一年半で短かった。なぜかと言えば、その陸幕長は統幕議長になりますから、別に短くても賛成ですね。三軍が賛成したのです。陸海空の三軍のユニホームが賛成をした。その取りまとめをしたのは三輪次官です。つい先日——昨日も実は三輪君、電話してまいりまして、あのときの記憶を私によみがえらせてくれたのです。そのいまの話、私も正確に覚えていませんが、きのう、あのときの状況はこうでございました
空幕人事は、私が在任の一番後半です。私が一年二カ月おる、一年二カ月のうちに、後の残りの四カ月ぐらいがちょうどその時期です。その前に内定したという、その内定文書というのは私は見たことないんです。じゃだれが内定したのか、いまお読みになったのは。大臣が知らないものをだれが内定したのか、これが一つの疑問。もう一つは、陸海空の制服の人事は制服組の中で決めるべきだというのが私の思想なんです。内局がゴボウ抜きすべきではないと私は三輪君に言って調整を頼んだんです。したがって、陸海空、その当時は各制服がその当時の人事を決めて、三輪次官を通じて私に推薦したんですから、その前の内定という大出さんのは、私は見たことも聞いたこともない。じゃだれがそれを内定し
海原さんというのは非常にできた、才能ある方です。やや才能過ぎるところが欠点なんです。そのために防衛庁内では海原支持派、海原、反海原派という時代だったと私は思います。私はいずれにしても海原君の人事には触れませんでした。印象的には触れたいと思ったことあります。それはあなたが一番御承知の、私が防衛長官になったときは三次——三矢研究問題というのがあったのです。その後私が引き継いだ。そこで何とか人事一新をしろというのは、その当時から私に対する一つの使命でした。しかし、幸か不幸か私はその人事の手を触れられなかったんです。全然内局人事に私は触れた記憶ありません。その方を中心にいろいろいま問題になっているのですが、一方の見方から見ればそう見られるか
選挙及び政治活動に使いました。
私はだれにもインタビューをされたことはないのです。その毎日の方は、大体どの方かわかりますが、インタビューに来られたんじゃないのです。私に激励に来られた。そしていろいろな雑談をしただけです。名前も、多分その方だと私は思いますが……。私は一度もインタビューをしたことはありません。恐らくその方の主観がほとんどになっているのじゃないでしょうか。
私に対する政治献金ですから、私の判断で使いました。
いまのほかの外人の方は、残念だけれども全然記憶がないのです。ただ、いま言われますと、チータムさんが私の事務所に来たときに別な外人の人がおりました。その方は盛んにメモをとっておって一言も発言しなかった。そういう方がおりました。私はそれは秘書か何かと思ったのですが、あるいはいまのアンダリンさんか何とかだったかもしれません。その記憶はその程度です。 もう一つは、グラマンの工場をチータム氏に誘われて昼飯を食べに参りました。その趣旨は、アポロの飛行機を見せてくれたのです。アポロの着陸飛行機を東京で話したから、君は関心があるなら実物を見せよう、白い服を着て私はアポロの飛行機を見て、昼飯はグラマンの会社の社員食堂、まあ役員食堂でしょうね、そこ
相手方がどう判断したか知りませんので、それは恐らくグラマンの方でお決めいただかないと、本当にわからないことなんです。あるのかないのか、私に意識がないのです。だから、SECの報告をお書きになったグラマンの方でお決めいただかないと、私であるかないか、それは大変私は自信がないことです。 それからいまのお話の海部、島田と一緒に会ったというのはずいぶん後です。それは島田君が通訳で来たのです、海部と一緒に。そのときはどちらかと言えばチータム氏はもう会社をやめていたころだと私は思うのです。だから、もう恐らく契約も全部その後です。ずっと後です。そのときにチータム氏が私に会いたい、島田君が通訳に来た、そのことで、そのいまの話とは全然時間的に——事
私がずいぶん後だと言ったのは、チータムさんがたしかグラマンをおやめになった後、こういう意味であります、たしか二年間ぐらいですから。そういう意味で、ずっと後という意味ではありません。その時間的なものはそう私は印象にない。 私も国民の皆さんに、世間をお騒がせしたことは非常に反省しております。自分の態度についてどうしようか、私はやはり国民及び有権者の意向というものに自分のことを任せるのが一番正しいのじゃなかろうか。また、こうやって言いたくないことを私は言いに来ているのです。これぐらい言いたくないことはありません。それを進んで言うときほど人間は苦しいものはないのです。まず政治責任は、本日真実を述べることが今日の私の政治責任を果たすゆえん
検察庁の発表に任せたいと思います。
事柄が捜査のことですから、捜査当局からお聞きしていただきたいと思います。
高畑氏の御意向により海部、島田君を通じて四年間、数回と思います。いろいろ政治情勢もあったから、いつ、何月とはわかりません。不定期でありました。定期じゃありません、不定期でありました。金額も不定であります。不定というのは一定の金額という意味じゃありません、不定であります。順次受け取りました。
という発表を私は仄聞しておりますが、私の真意は政治献金であります。それに、各所においてそのことは私は自信を持っております。
四十七年以降はほとんどありません。
気持ちの上は小林さんと私も同じです。私もそう思いたい。ただ、四十七年から内閣がかわり、政治情勢が変わり、田中内閣になりました。恐らく私に対する評価か政治の流れを見られたのか、または経済的に政治献金をする経済事情が許さなかったのか、それはわかりません。
十年一昔と申しますが、十年前のことですから、その当時私も覚えておったと思います。しかし、十年間の間に衆議院選挙が四回、たしか参議院選挙が四回、地方選挙が三回。大体お互い政治家は選挙から選挙、前の選挙までは覚えておりますけれども、その前の選挙になると覚えにくいものです。その前の前となるとなお覚えにくいと私は思うのです。したがって、私の記憶では選挙、政治活動以外には申し上げるだけの記憶がございません。