後藤田長官、またこれを延長するのは、法律出さぬといかぬでしょう。法律出すのなら、また行革特別委員会をつくってやらなければいかぬですね。そんな余裕がありますか。
後藤田長官、またこれを延長するのは、法律出さぬといかぬでしょう。法律出すのなら、また行革特別委員会をつくってやらなければいかぬですね。そんな余裕がありますか。
後藤田長官、六十六年完了というのは、あれだけはっきりした約束です。しかも、前を三年動かしても大丈夫です。私はまだ余地あると思うんですよ。あの当時の計算に比べたら、子供の数うんと減っています。だから、文部省もそういう含みがあったから、あのとき簡単にのんだんだと思うのですけれども、それがありますから、六十六年動かすなんということは絶対あってはならぬと思うのですが、もう一遍。それまで検討するなんて言われたら、これはもう開き直らぬといかぬし、総理を呼んでこぬといかぬ。
竹下大蔵大臣、六十六年、これが動くようなことはないでしょうね。
後藤田長官、これもし延ばすのだったら、法律いつ出しますか。いつの、どの国会にかけるんですか。秋かけたんじゃもう間に合わぬのですよ。そうかといって、これは財政事情を特に考慮してというのだから、あとは大蔵大臣の査定で適当になるなんということは許されない。法律でやったことですしね。また特別委員会をつくってやらなければできないこと。これ、実際手続的にできないでしょう。おできになりますか、後藤田長官。
では、後藤田長官としては、とにかく知恵を出し合ってやれるようにする、こういうことで。 それから大蔵大臣、それだけ御苦労なさって、それから前任者のことを言って悪いんですが、渡辺大蔵大臣も答弁に困ったんです。ただ、財政事情を考慮するというのは、計画の前から法律に書いてあるのです。それを何で改めてやるかと言ったら、やりやすいからというようなことで、言い直したり大変苦しい答弁をなさって、とにかく六十六年、これは守るんだからということで来たいきさつもあるので、今のようにやると、内閣の一貫性なんというものはないので、そんなことでは私は教育行革はできっこないと思う。だから、ここでは大蔵大臣、ひとつ腹たたいて、六十六年は守りますとぜひ言ってほし
森文部大臣、あなたはあんな答弁を聞いて黙っておられる筋合いはないと思うのです。大体十二年は長過ぎる。それを三年後見直して短縮するという提案は、あなたの党が委員会でしたんですよ。今の政務次官ですかね、がしている、あなたが責任者で。それは子供の減り方なんか考えたら、あのときに九年でもできたんです。そういう状況であった。そこで三年後見直すというので、このことについては鈴木総理も本会議でちゃんと約束しておるんです。もっと短くしたらどうか、そうしたら、決議によって三年後見直すことになっておりますからそのときに配慮するというので、これは三年後見直しで縮むはずになっておったのが、この行革で逆に三年間据え置かれたいきさつがある。 ここで一つ子供
大変御立派です。そうでないといかぬと思うのです。 なお文部大臣、もう一つ言います。まだこれはけしからぬですよ。五十七年に同然増五百人削ったのです。こんなことまでしたのです。私は、これは許せないというので、これは竹下大蔵大臣になってからでしょう、その五百人は返してもらいました。私は非常にこれはよかったと思うのです。そんな非道なことまでしょうとしたのです。今度また同じようなことですよ、もし一年これを送るというようなことになれば。 それから、文部大臣に御注意申し上げますけれども、配置率の改善でとかなんとかというようなことをちらっとおっしゃったけれども、計画は一体のものです。それを、四十人の方はおいて配置率だけどうとか、そんなことは
まだもう一言私、言わぬといかぬから、簡単に。
もう一言。 厚生大臣の言われることもわからぬことはないのですけれども、しかし、保育に欠ける子供というのとそうでない子供と差別できるわけです。それから、幼稚園は親の選択で行くわけで、ここらへそんなに、今申し上げましたように、幼児教育というのは大事だというときに、差別のない形態——時間なんかの問題は解決の道はあります。時間の問題も解決の道はあるはずです。そういうことを考えていただいて、本当にここらでこの問題処理しなかったら、いつまでたっても厚生省は保育にかける保育に欠ける、いつまでも垣根つくらないといかぬような、こういうことが続きますから、名前なんかも保育所の保育を残して、幼稚園の園をとって保育園とすればちゃんといけるわけで、できて
では、終わります。
公述人に質問をまとめていたしまして、それでお答えをいただいて、持ち時間が余れば次の質問をさせていただきます。 大田公述人と黒羽公述人にお尋ねいたします。 まず、大田先生の方へお尋ねいたしたいのですが、今公述なさいました中で、特に今度総理大臣の諮問機関として、何という名前ですか、教育臨調というのか、そういうものができようとしておりまして、これが大きな問題になっております。このことに対して先生が大変具体的におっしゃったキャラハンのこれに対する考え方、態度、それからレーガンのこともおっしゃいました。私も、以前にジョンソン大統領、この人は教育者出身でして、中等教育に、ああいう財政の中ですけれども、七十億ドルばかりいきなり出したという
お二人の公述人からいろいろ補足の御答弁をいただきまして、よくわかりました。 続いて、もう時間が八分ばかりしかございませんから、まとまった御質問できませんので、三人の公述人にこのことについて一言ずつ、あるいは私は答えないということであればそれでも結構でありますが、今度進められようとしておる教育改革、その中で、例えば中曽根総理は、私は改憲論者であるということを言っておられますし、そしてまた二十一世紀を展望してということの教育改革でございますし、あるいはまた政党内閣ですから、中曽根総理の自民党も自主憲法の制定という憲法を改めていくことを意図しておられます。そういう点から、一応総理は、私への答弁でも憲法、教育基本法は守るんだということを
あとわずか時間が残っておりますから、法眼公述人はえらいはっきりおっしゃいましたので、私もはっきりお尋ねします。 あなたは、戦後の教育その他が戦争の反省に立ってできたことはもう御存じのとおりで、なおかつ今日でも戦争を肯定なさいますか、どうですか。このことだけひとつ。
戦争を防止するというお気持ちであるということはわかりましたけれども、今のような考えが妥当かどうかということについては疑義があります。殊に、第九条というのはそれとは逆な方向だと思いますので、ひとつもう一遍、御答弁は要りませんから、こちらだけ申し上げます。 それからあともう一つ、黒羽公述人、私が申し上げておりますのは、教育の基本というものは、憲法の理想を実現するのは教育の力にまつという、スタートからあらゆる教育が出てきておることは、これはもう申し上げるまでもないことであって、今憲法を改正するかどうかがそこで議論になるのではなくて、国の理想ですね、崇高な国の理想というものが憲法にうたわれて、それを実にしていくのが教育だという規定がある
お尋ねしておるのは、教育改革に当たって憲法、教育基本法の精神をお互い心してやるべきだということについてはいかがでしょう。
では、終わります。
私は、主として教育改革の問題についてお尋ねいたしたいと思います。 総理は、教育改革は国民の声である、今日国民の教育改革に対する世論の盛り上がりというものは極めて大きくて、教育改革の絶好の機会であるということを申されておりますが、私もこの点は同感です。ただ、選挙において、田中問題に対しての処理については批判を受けたけれども、政策は支持されたということを申されましたが、これはちょっと違った見方もあるのじゃないか。と申しますのは、今の教育改革に対しての世論の盛り上がりというものは、教育を改革して文化国家、平和国家、民主国家をつくっていこうという、そういう積極的なものではなくて、今日の教育崩壊を憂えて、これは何とかしなきゃならないという
厳粛に受けとめているということだけでは国民はわからないと思います。もう既に裁判長は今のようなことをはっきり述べておるわけですから、裁判長の言っているとおりだということなのか、それはそうは思わない、これは別にどうお答えになったからといって、それを重ねて質問いたしません。率直に述べていただきたいと思うのです。
いただきたいお答えがいただけなかったことは残念ですけれども、後、順次お尋ねして、もう一遍そのことをお尋ねしたいと思います。 具体的な事実を挙げてお尋ねいたしたいと思うのですが、昭和四十九年二月八日、ちょうどやはり衆議院のこの予算委員会でした。田中総理で、中曽根総理は当時通産大臣としてその席におられましたから、あるいは御記憶になっておられるかもしれません。私はやはり教育問題を取り上げまして、文部大臣にはひとつぜひ立派な人を選んでいただきたい、今までもそうですが、特に教育の重大なときには立派な文部大臣を選んでいただきたいという要請をいたしました。さらに、総理が教育勅語はいいことが書いてあるというような御発言があったり、東南アジアの方
それじゃ、今のは会議録ですから、そのとおりです。 さて、これは今申し上げましたように、二月八日と三月二十九日と二回のを今一緒に申し上げました。それから一カ月余りたって、五月十三日に、田中総理は武道館で、田中総理を励ます会で五つの大切、十の反省を発表されました。これは日にちは別として御存じのことと思います。それを受けて、五月の十三日に発表になって、あと党内いろいろ調整もあり、文部大臣とのお話し合いもあったと思います。そうして、これがこの五つの大切、十の反省を教育の舞台に出すことを決めまして、その後、四十九年の六月二十四日に、当時の文部大臣――お名前を挙げてもいいのですが、こう見回すと、文部大臣がこの委員会には随分たくさんいらっしゃ