同じです。
同じです。
御指摘のように、事実報道と社説という大きな分け方はしております。ただし、社論というものはやはり一部に当然ながらあります。 朝日新聞の場合は、社説のほかにも特定のコラムニストがみずからの意見として書くということもありますし、記者が署名をつけて意見を述べるということもあります。それ以外の事実報道の部分は客観報道に徹するというふうに考えてはおりますが、世の中的に言うと朝日新聞的というような受けとめ方をされることがあるということは自覚しております。 ただ、私ども、オピニオンという面を持っておりまして、いわゆる朝日新聞的ではない立場の方たちの御意見を紹介するような工夫をしております。できるだけ多元的な意見を読者の方に伝えたい、その中で
新聞社として意見を持つということは当然あります。少しでもよりいい社会にしたい、世界が少しでも平和になればいい、そのために自分たちに何ができるかということをやはり我々も日常的に考えます。そのために朝日新聞社としてはこうするのがいいという考えがあります。それを提言の形で紙面に載せるということは当然にしなければいけない、それが一つの役割だというふうに考えています。 ただし、自分たちの意見と違う意見を載せないかというと、そこは違う。つまり、社論と明らかに異なる意見も載せていく、そのことによって読者に正しい判断をしていただくということを日常的にやっています。 以上です。
新聞というものは宅配制度に支えられて全国あまねく届いている。私どもは、安定的に新聞が届けられるということについて非常にありがたいと思っていますが、日々読者から寄せられる声というのが極めてビビッドで、なおかつ極めて厳しい。一つの記事について、こういうことを書くならもうとらないとおっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。逆に、ある日、この記事を外で見たからこれからとると言ってくださる方も少数いらっしゃいます。安定的にお届けはしているんですが、やはり日々選択されているというのが正直な実感です。 ですから、慢心して、自分たちの意見はこれだ、これを書いていればいいんだという形で新聞を出していたら必ず読者は離れるというような危機感があります。
前提として、国民の意識がどこまで成熟しているかということがあると思います。極めて成熟した議論がなされている場合に明らかに虚偽の報道をした、これは瞬時に淘汰されるというぐらいに考えています。 ですから、安定的に日々お届けしている、これがあしたも続いていくという感じは実は余りないんですね。日々本当に危機意識を持って、自分たちが間違ったことをしないように注意をするということがあります。特に最近、朝日新聞はトラブルが続いたものですから、これは全員が身にしみて感じています。国民がこの報道は間違いだ、虚偽であるということを判断した場合には朝日新聞は維持できないというふうに考えます。それは期間の問題ではなくて、国民の意識の成熟度の問題であると
社の主張の形成の仕方ですが、おおむね読売さんと同じような形になります。ただし、かかわる記者が日常的には社外の方に、取材活動を通してですが、さまざまな意見を聞きます。有識者の方もいらっしゃれば政界の方もいらっしゃる、いろいろな方からできるだけ多く話を聞いて自分なりの考え方をまとめていくという作業が前提にあります。 その上に立って、では、世の中をよくするにはどうするのか。大きな目的として社会の繁栄と平和ということがありますので、そこに向かって議論を積み重ねる。朝日新聞社の場合にはかなり開いた議論をします。論説委員室だけではないです。一般の記者が飛び入りで入って議論するようなこともございますし、さまざまな場でそれが行われている。ですか
つまみ食いをされるということについての若干の思いはありますが、朝日新聞に限って言えば、ごく一部の記事をつまみ食いして切り取って報道されたとしても、そんなに危険なことではないというふうに考えています。
朝日新聞社について若干申し上げます。 特定の候補を利するために報道するということは全くあり得ません。それは、何らかの内規とかそれ以前の問題で、最も戒められることである。 実際に選挙報道というのは、例えば終盤の情勢ですとかを報道しています、そのことによって選挙結果が動き得るという認識はあります。なるべく有権者の意識を曲げないようにしたいということを心がけていて、そのためにどういう紙面をつくるのがいいのか。報道はする、情勢がどうなっているかということを選挙民に伝えたい、しかし、それによって影響を与えることは最小限にしたいということを意識して努力しております。 ですから、結果的に影響があったということは確かにあるかもしれません
公職選挙法の場合は、かなり数多くの選挙報道の経験を積み重ねてでき上がった形というものが現状であるというふうに考えます。ですから、百四十八条のただし書きがなくなったとしても、今の報道が続く。ですから、あるかないか、確かにあるんですが、ほとんど意味をなしていないというふうに考えます。ですから、意味がないならあってもいいじゃないかという議論があるかもしれませんが、それは国民投票については違う。 先ほどから申し上げているのは、つまり、新聞は国民の言論の器でもある、新聞を規制することは国民の言論を縛ることである。ですから、国民の皆さんが受け入れるかどうかという御質問もありましたけれども、ぜひとも受け入れてもらわないと国民の皆さんが困るとい
あらゆる権力から独立したメディアというものは何かというお尋ねだと思いますが、制度的には法的規制がないということが一つ前提になると思います。それから、権力におもねらない自由な意思、自律した意思を持って存在するメディアというのが意識の面では前提になると思います。 以上です。
おっしゃられるように、メディアに対する規制の流れは随所に出てきていて、非常に危機感を持っています。基本的には、民主主義の危機だというふうに考えます。 新聞メディアが規制されるということが何をもたらすか。つまり、新聞が伝えられなくなるものがある、それは国民が知り得ないことが出てくる。つまり、国民が手にする情報が極めて制約されて少なくなる。それが民主主義にとってどういう意味があるか。もう自明だと思います。大変に危機的であると。 ただし、メディア規制でなぜそういう議論が出てくるかということについては、私どもも反省すべき点があるというふうに考えています。ですから、民主主義を脅かさないためにメディアとして何ができるかという工夫はしてい
広報活動に協力するということですが、我々は、国民が知るべき情報をできるだけふんだんに提供する、そのことについては日夜努力している。 ですから、だれに協力するのか、何に協力するのか、どなたかに協力するという意思は、私たちはありません。そうではなくて、国民のために情報を提供する、それが私たちの本来の姿で、それを精いっぱいやる。ですから、結果的にそれが広報活動への協力ということになるかもしれませんが、出発点が全く違っているということだと思います。
個人情報保護法の関連でちょっと御説明をします。 例えば地域社会で、ちゃんと暮らしておられるかどうか高齢の方を見回るボランティアのグループがある。この人たちが行政に対してどういう方がどこにおられるか教えてくださいと言うと、これは教えられません、個人情報保護法がありますというふうな答えを返される。つまり、地域社会の助け合う共助の仕組みというのが成り立たない状況が出てきている。要するに、もっと広く情報を共有した方がいいにもかかわらず、それが妨げられているという状況になっている。 それから、大きな問題で、公務員の処分の問題があります。ほとんどが処分した名前は出さない、あるいは理由も出さないということが広がっている。例えば、東北のある
諸外国の事情を紹介するというのは、国民の意思形成に有意義であるということならどんどんやる。ですから、外国人からの投稿ないし意見が寄せられた、あるいは紹介するかどうか、これは、国民にとって有意義であるということなら全く何の制約もなしにやります。
意見表明ということについて言えば、どんな人間であろうと、何を職業としている人間であろうと、自由が保障されるべきであるというふうに考えます。教育の場でどうするかということはまた別の議論だと思います。意見表明ということについて制約を設けるべきではないと考えます。
二つの柱があると思います。 朝日新聞の場合には、定期的に特設面をつくって紹介していますが、国会での論議がどういうふうに進んでいるかということを国民に伝える、これをできるだけきちんと、その場で出た意見をできるだけ幅広く伝えたいということを意識してやります。それから、そういう議論が出てくる社会状況、前提となっている憲法をめぐる社会状況がどうなのか、それをもう一回見直そうという意思があります。 ですから、今どういう議論がどこでなされているのか、それから今の社会がどうであるのかということをきちんと伝える、そのことで最終的に国民一人一人がどういう社会がいいかということを考えてもらうというふうになればいいなと考えています。 以上です
言論機関と報道機関というふうに峻別するということですが、実態としてはそんなに大きく分かれているわけではないんですね。一体のものであって、なおかつ、言論的な部分と報道の部分と。完全に客観報道と言っておりますけれども、それはやはり社の編集方針というのもあります。ですから、どこまでが社の言論であって、どこからが報道であるかというのは、一応の整理はついていますけれども、ある種重なり合う部分もあるというのが実態だと思います。 その上で、それをどういうふうに読者に伝えるかということですが、言論である場合には、それは言論である、主張であるということを明確にする、これが大前提になると思います。そのほかに、読者に対してどういうふうに工夫をしている
読者の反論、注文、要望をどう反映させるか。一つは「声」欄という欄が、伝統的、歴史的な欄なんですが、あります。これは、かなり多種多様な方から投稿が、大変質の高い投稿が日々何十通、何百通と来ます。社説で書いたことに対する反論というのもあります。これも載せます。ですから、読者にとって、今どういう議論がこの世の中でなされているかというのが一目でわかるような欄にしたいというふうに考えて「声」欄をつくっておりますから、まずそこが一つ読者の反論、意見を反映させる場になります。 それから、読者参加という形でいうと、若干抽象的ではありますが、紙面モニターという制度を朝日新聞はこの四月からつくりました。全国に数百人のモニターの方を置いて、全く自由に
国民意識調査というのを日常的にやっておりまして、その中で憲法に対する意見を聞いたりすることがあります。ですから、今国民がどういう意識にいるか、それを切り取る予測報道というのでしょうか、まあ、予測ではないんですけれども、国民の今のあり方をフィードバックするという報道はあり得ると思います。ただし、どこかに誘導するような調査あるいは報道というのは多分しない。国民が自分たちの意識を自由に決めるということが大前提になると思いますので、それに影響するような報道はできるだけ避けるだろうと思います。 ただし、それが予測報道、まあ、世論調査というのでしょうか、調査報道をやらないかというと、そうではないのではないかと思います。