結局ソ連側の指示を佐々木克巳が受取つて、佐々木克巳から私に対してまた連絡が来る。
結局ソ連側の指示を佐々木克巳が受取つて、佐々木克巳から私に対してまた連絡が来る。
代表部です。
私が直接代表部に行くというのは、特に必要があつたときだけでありまして、通常月に二回、三回という電報の一々受渡しは、その佐々木克巳という人が間に入つたわけであります。
佐々木氏が死んだものだから、しばらく連絡がとだえておりました。昭和二十六年二月から再びソ連代表部と連絡がついたのであります。ての後二十六年八月の末でありますか、ソ連側の指示によつて、またいわゆる佐々木氏にかわるべき日本人が間に入るから、その者と連絡するようにご言われたのであります。
それが鵠沼のレポでありますが、その当時名前を一切聞かされていなかつたのでありますが、ただいまここでお顔を拝見して、ここにおられる鹿地さんであることははつきりわかります。
ソ連側の指示によつて、たしか八月三十日午後六時という時間を指定されまして、八月三十日の午後六時に藤沢から出ている江ノ島の電車に乗つて、鵠沼の一つ手前で降りて、線路伝いの道を鵠沼の方向へ歩いて行きました。そのとききれの帽子をかぶつて、手にズツクのカバンを持つようにと言われた。それを私は当時登山帽を持つておりましたから、登山帽をかぶつて、ボストンバツクをさげて、指定された時間に指定の位置に参つたのであります。
それはソ連代表部のリヤザノフ……。
それは私の自宅の付近で会つたときに言われたのです。八月のたしか十七日ごろ、中旬ちよつと過ぎたころだと思います。
午後六時。
六時に鵠沼の一つ手前の駅で降りましたところ、それは柳小路という駅でありました。
きれの帽子をかぶつて、きれのカバンを手にさげて行くようにという……。
そうしますと、ある日本人がやつて来まして、あなたに対して本鵠沼へ行くにはどう行きますかということを聞きますから、その場合に私は三橋ですと言えば連絡がとれるから、こう言われたように記憶しております。ちようどそのときは、六時ちよつと前に柳小路の駅に着きまして、五分くらいあのホームにおりまして、時間を見て、線路の左側に道路がありますが、その線路伝いの道を鵠沼の方向に歩いて行つたわけであります。そうしますと向うから開襟シヤツを着て、ハンチングをかぶつて、そうして開襟シヤツのすそをズボンの外にたらしておりました。柳小路の駅から大体五十メートルくらいだつたろうと思います。その地点で向うからそいううかつこうをした人と出会つたわけであります。その人
そのときの話は、私はまず会つて、私はロシア語がよくわからないものですから、どうもこの会見がうまく行くかどうか心配しておりました、私はそう言いました。
私が言つたのです。私が、私自身ロシア語をよく知らないので、またその相手のリヤザノフというものは日本語が非常に下手なのでありまして、なかなか意思がうまく通ずるのに骨が折れのであります。そういう状態でありましたから私もちよつと心配しておつたのでありますが、それはうまく会えたので――そうしますとその相手の人は私に対して、いつごろこちらへ帰られましたか、ですから二十二年の十二月に帰つております、何年くらい、二年向う――向うというのはソ連を意味しているわけであります。そうしてそのとき、その相手の人は、この位置はあなたの方から遠くて不便かもしれないけれども、私はちよつとこの地域を離れることは危険だから、レポの場合にこちらまで出て来てほしい、そう
レポという言葉は使わなかつたように思います。会うときにはこちらに出て来てほしい、そうしてもし私に急に用事があつたときにどういう連絡の方法をとりましようかと先方の人が言いましたので、私は会社に電話をかけてもよろしいですよと言つて、自分の会社名の入つた私の名刺を渡したのであります。ところが電話はちよつとまずいですから速達を横浜から出すことにしましよう、それでその差出人の名前は何ということにしましようかというので、私は山下義雄という名前でよろしいです、こう申し述べたわけであります。
ええ。用事があつたときは横浜から山下義雄という名前で速達を出しますから、その速達がついたら、その速達の差出のスタンプの日付の翌日に――そのときはたしか……。
二十六日というスタンプが押してあつたら二十七日というわけです。
その場合に「よしお」という字はどう書きますかと聞かれたので忠義の義、「お」の字はと言うので「お」の字はどちらでもいいと私は答えたように思つています。
「お」の字はいろいろありますから。
スタンプがはつきり押せない場合もあるかもしれませんが日付の翌日――もちろん日付は差出人の日付が入つておつたし、一回受取つていると存じますが、それで日付の翌日と言われたのだと思います。