三橋正雄です。
三橋正雄です。
東京都北多摩郡保谷町下谷二百三十八番地でございます。
生れたところは、東京の麻布であつたことだけは知つておりますが、その前はよく知らないのです。
ただいま会社員であります。
帝国電波株式会社であります。
私が入つたのは昭和十二年七月ごろに入つたのであります。但しその当時は白山電池合名会社と社名はかわつておりましたけれども……。
私は東京の麻布で大正二年十月十四日生れまして、麻布我善坊におりまして、小学校四年のときに東京震災にあいまして、父が死にましたものですから、鹿児島の親戚の方に引取られたわけであります。その後東京の岩倉鉄道学校に入学いたしまして、そこを出ましてから、しばらく満洲の満鉄医科大学病院に三、四箇月勤務したことがありますが、その後再びまた東京に出て参りまして、ラジオ商店に勤務しておつたのであります。昭和十二年にただいまの帝国電波の前身である白山電池という会社に移りまして、昭和十九年七月の十日だつたと思いますが、召集が参りますまで、そこに勤めておりました。それから満州の新京にありました七五八〇部隊のいわゆる関東軍固定通信隊という部隊でありますが、
ソ連から東京に帰つて、東京の大使館からの指令に従つてソ連本国との間に秘密無線局を開設しろという命令を受けて参つたのであります。通信を始めましたのが昭和二十四年の四月ごろからだと思いましたが、その前に昭和二十四年の一月にCICの取調べを受けた際に、その事実をすべて申し述べたのでありますが、その後は米軍の命令に従つて今まで通りにソ連との連絡を続けるようにとの命令を受けまして、その後現在、昨年の十二月の――最後は二日でありましたが、二日までソ連から命ぜられた通りの通信をただいたまの自宅から行つておつたのであります。
マルシヤンスクの収容所におりましたころ、これは昭和二十二年の二月ごろだつたと思いますが、モスクワから調査団という名前で、日本語の非常にうまい人物が参りまして、いろいろ私の過去、経歴、技術の状態なんかを調べて、モスクワに帰つたことがあるのであります。その後四月ごろになつて、急にモスクワの収容所に転属命令が出まして、そして六月の未に、また前の調査団という名前で来た日本語のうまいロシヤ人が収容所に参りまして、私に対して日本に帰つてから、ソ連と秘密通信をやつてもらいたいという依頼を受けたのでありますが、そのときの私の立場としては、それを拒絶することはできなかつた状態でありましたので、そこで誓約書を書かされたわけであります。日本内地に帰つて、
昭和二十二年十二月の三日に舞鶴へ上陸しました。
九日の日に東京に着きました。
最初は二十三年の四月中旬に、ソ連側と連絡がついたわけであります。その後は別に何の任務も与えられずに、毎月一回ずつ会つておりましたが……。
それは私の裁判のとき氏名がはつきりわかつたのでありますが、ただいまちよつと忘れましたのですが、それはソ連代表部の人間であります。
上野の池ノ端が一番初めでありました。
それから翌年、昭和二十四年の四月ごろ、その男から無線機を測されたわけであります。それでそれをその当時私が下宿しておりました練馬の下宿に持ち帰りまして、そこでその翌月の五月ごろからだつたと思いますが、そのソ連代表部の指示に従いまして、通信を開始したわけであります。
そうであります。
それは私を案内して、ソ連代表部に数回行つております。ソ連の大使館の乗用車を使用しております。
一緒に行つたことがたびたびあります。代表部員の中の写真に、その人物がちやんと出ております。
そのあとの二名は覚えておるのでありますが、一番最初の人の名前ははつきり……。
その後私とソ連大使館員との間に、もう一人の日本人が私との直接連絡をするために入つたのであります。その人は佐々木克巳という人でありましたが、その方は現在なくなつておられないのです。その方がなくなつたものですから、その後しばらく連絡がとだえておつたのでありますが、昭和二十六年の初め一その方がなくなつたのは昭和二十五年の十一月だつたと思います。