昭和二十年の九月の末ごろであつたと思いますが、調査部が内務省に新設されましたときに、私は当時内務省の管理局長を拜命いたしておりましたが、兼任を命ぜられまして、二十一年の一月下旬に退官するまで管理局長、調査部長兼任のままで在職いたしておりました。
昭和二十年の九月の末ごろであつたと思いますが、調査部が内務省に新設されましたときに、私は当時内務省の管理局長を拜命いたしておりましたが、兼任を命ぜられまして、二十一年の一月下旬に退官するまで管理局長、調査部長兼任のままで在職いたしておりました。
さようでございます。
山崎巖さんでございました。
さようでございます。
さようでございます。
それは調査部が設置されます少し前に、連合軍の方から、日本軍から接收された兵器、その他軍需品を日本の民生救済のために日本政府に返還をしてやろう、それで受領の混乱を避けるために、一省また一局をきめて、司命部の方に報告をせよという御内意がありまして、いろいろ政府の方で御研究の結果、内務省がその衝に当つたらよかろうということになつた。内務省としては当時どの局にやらせるというわけにはいきませんので、新しく臨時に調査部というものが創設された、かように承知いたしております。
さようでございます。
その調査部が創設されますまでのですか。
それは私は存じません。内務省の当時の次官は古井さんであつたと思います。古井さんのお手もとで外務省とか、あるいはその他いろいろ内閣あたりと御相談があつたように就任後伺つたのでございます。
はい。
記憶いたしております。
これは調査部が仕事を始めましてから、いよいよ進駐軍からいろいろな物資の御返還を受けるということになりまして、この処分をどうするかということで、いろいろ内務省内で議を練りまして、連合軍にも御意見を伺い、関係各省ともいろいろ下打合せをしました結果十月の、日を記憶いたしませんが、中ごろであつたかと思う、特殊物件の処分に関する大綱というものを、閣議できめていただいたことがございます。その閣議の決定に引続きまして、いろいろ内閣各省とも御相談をして、この兵器なりあるいは被服、衣料、また各仔細にわたる返還物資を処理するために、特殊物件処理委員会というものをつくろうということで、それも期日ははつきり記憶しませんが、処分大綱をきめていただいて間もなく
そうだと思います。十月その処分大綱をきめていただいて間もなくそういうものができたのではないかと覚えております。
ございます。
連合軍の方から兵器彈藥等返還をしていただきますことは、当時のわが國にとりまして、まことに望外なことであつたのであります。この返還を受けました兵器を解体しまして、日本の産業復興に少しでも役立てたいと考えておつたのでございますが、さてこれは実際問題となりますと、御承知の通りに兵器の解体と申しましてもなかなか容易ならぬ事業でございます。ちようどそのときたまたま当時第八軍におられましたバラード大佐から内務省の東局支局長をしておりまして第八軍との連絡折衝に当つておりました青木君に対して、この兵器の処理は民間機関をして当らしてはどうかというような御提案があつたように記憶いたします。それからだんだん話が関係方面に具体化してまいりまして、御承知の通
その点は私の記憶ではつきりしておりますのは、民間の機関にやらしたらいいという点に関してバラード大佐の御提案があつたことは記憶いたしております。しかし具体的にどの社にやらせるということまでお話があつたかどうか、この点は私記憶しておらぬのであります。当時の特殊物件の処理のやり方を申し上げますと、受領を受けました物資は非常に廣範囲でございまして、とうてい内務省調査部だけのスタツフをもつてしては、これを適切に処置するという立案の能力を欠いておつたのでございます。そこでいよいよ軍事品の返還を受けるときまりましてから間もなく関係者にもいろいろ集つていただきまして、連合軍から物資の返還を受けるいわゆる受領の任務、これはむろん内務省が当然の任務とし
さようでございます。
はい。
先ほども申し上げましたように、私の記憶としましては民間の会社にやらせる、こういう点についてたしか十月の——日にちははつきり記憶しませんが、半ばごろであつたかと思います。バラード大佐は大体横浜におられたのでありますが、何曜日かの日に東京に出てこられるのが例でありました。そこへ青木君が呼出しを受けました際に、民間にやうしたらどうかというお話があつたことを私は伺つたように記憶しますけれども、その際に、またその後もバラード大佐からこれこれにしろという非常に具体的な、ただいま委員長の御指摘になりましたような具体的な指示といいますか、命令といいますかがあつたということの報告を私は受けた記憶はございません。
ございませんでした。