昭和二十三年の二月九日よりやつております。
昭和二十三年の二月九日よりやつております。
今年の四月の十三日に平市大町十八番地の長江久雄という者の名義で、平市駅前の縣道地内の道路に廣告宣傳のために掲示板を設置したいという申請がありましたので、当時その附近には二つほどの廣告の掲示板がありましたので、一應交通上大した支障もあるまいというような状況にありましたので、四月十四日より申請人の希望通り七月の二十日まで三箇月余の期間許可をしたわけであります。その後その掲示板が共産党の石城地区委員会の壁新聞に利用されておつたということがわかつたわけでありますが、その後周辺の炭鉱の労資間の問題、あるいはまた周辺の市町村政の批判の掲示等がありまして、通行人も関心を持つようになつてそこに立ちどまる機会が多くなつた。その場所は駅前の道路でありま
申請当時共産党員であることはわかりませんでした。その後その掲示板が共産党の石城地区委員会で使用されておつたので、共産党員であるということを承知したわけであります。
原本を持つておりませんが、この期間が一九四九年四月十四日より四月二十日となつておりますが、四を訂正しまして七になつておつたわけです。
そうです。
撤去について、軍政部からの命令はありません。ただ最初杉森という巡査部長が口頭で取消しを通知した際に、軍政部の自動車が通行する際にその場所が邪魔になつたというような話をしたということでありますし、また反対に共産党の地区委員会の幹部は、その巡査部長が軍政部の命令だから取消せと言つたというようなことで私のところに参りましたが、私はそういう命令は全然受けておらない。だからそういうような点で感情を害さないで、警察の純然たる交通上の取消しに感じてくれというようなことを……。
私は軍政部の命令であるということを話したことはありません。
二十七日の午後三時半か四時ごろと思いますが、共産党石城地区委員会の委員長である鈴木光男、委員である鈴木岩雄外四、五十名が参りまして、私に面会を求めて、掲示板の取消しは共産党に対する警察の彈圧であるといつて、抗議に來たのであります。申し遅れましたが、その前に二十五日に取消しを通知したのでありますが、それに應じないので二十七日の朝になり、施設者側で撤去しない場合には、二十七日の午後五時までに警察側において撤去するからという代執行の通知を出したわけであります。それに対しまして、その日の午後三時半か四時ごろ、さきに申し上げた者らが参りまして、警察の取消しは共産党の政治活動を妨害するものである、それゆえにわれわれは應じられないから、その警察側
警察は何か吉田内閣の犬であるとか、あるいはまたわれわれ労働者を彈圧するのだ、そういう署長はやめろとかいうような、罵譬讒謗に近いような話も中に出たようなわけでありますが、そういうことからして、代表者のみ入れたということで、他の者は署外に出てもらつたわけであります。
平市内におる者は少く、内郷町あるいは湯本方面の者が多かつたのであります。
日本共産党の石城地区委員会の幹部たちが入つておりましたから、地区委員会の細胞の人たちじやないかと考えております。それから朝鮮人連盟の石城地区の所属の者たちが相当おりましたから、朝鮮人連盟の石城支部がそれらについて指導しておつたのではないかというふうに考えております。
二十七日の交渉の結果適当な場所を見つけるということでまとまりましたので、二十八日にさつそく地区委員会に電話いたしまして、昨日の交渉の継続をしようという連絡をいたしましたところ、幹部は一名もおらないので、交渉ができないというので、二十九日の九時半から交渉をしようという申入れをしまして、二十九日の九時四十分より交渉に移つたわけであります。二十八日に幹部が一人もおらなかつたというのは、これもあとで聞いたことでありますが、二十八日に地区委員会の幹部たち、その他朝鮮人連盟あるいは党員などが約百五、六十名内郷町警察署に行きまして、署長に対し、二十七日に平市警察署に應援に行つたことは不当であるというようなことで、抗議に行つたことを聞きましたが、そ
私の方で、二十七日の例もありますので、多数の者を入れると交渉しにくい、代表三名だけ会うからということを次席警部を通じて金田という警部補に指示しまして、裏から表から入らないように、そうして表に金田警部補以下約十名ばかり配置しておきまして交渉に当らせたのであります。ところが彼らはそれを承知しないで、むりに入ろうとするようなことになつて、金田警部補以下十名近くの警察官と玄関先において、彼らは入ろうとする、これを入れまいとする、そこで衝突が起きまして、彼らは先頭にいた警察官三名ほどを群集の中にひきずり込んで叩くあるいは蹴るというような暴行を加え、あるいはまた道路上にあつた石などを署内に投げ込むというような乱暴事件が起きたわけであります。その
それによる結果私の署の金田警部補以下七、八名負傷したようなわけで、長いのは三週間くらいの打撲裂傷を負つたわけであります。現在はそれらの署員は一應勤務しておりますが、まだ二名ほど完全でない状況であります。その衝突が済んで、私は一應代表と会うからという話をしているうちに四、五十名の者が署長室に入つてしまつた。それで当時私の方の署員の状況を申し上げますと、定員は五十名になつておりますが、警察官の再教育のために十名福島市に行つておりましたので四十名。さらに婦人警察官三名を除いて三二十七名という現員でありましたので、約百五十名の者の入署を阻止することがとうていできないような状況であつたので、そのままにしなければならないということで交渉に移つた
署長室におきまして、交渉は三十日の午後四時までに撤去しろという言葉を取消せということでありましたが、すでにその話が出ましたのは午後四時二十分ごろでありましたので、午後四時という時間が過ぎているので、そういうことは問題になるまい、時間が経過していれば早く移轉する方法を交渉したらどうかということで、向うは一週間くらいの時間がほしいということでありましたが、そう長く置けない、三日間後に、移轉することということで移轉の問題は一應まとまつたのであります。さらに続いて私に対して四つ要求を出しまして、一つはこの事件が起きたのは署長の責任であるから、署長が責任を負え、一つは共産党側にも負傷者が出ておる。これらの負傷者の費用は警察側で弁償するように、
先ほど申し上げましたように、約四、五百名の者を署内から出すというようなことはとうていできない状況であつたので、一應二階だけ上る、あるいは二階の電話室とか、そういうところに入るのを防止して、二階の廊下、あるいは入口のところに警戒しておつたような状況であります。下の事務室には二、三の警察官がおりましたが、そのほかにはおらなかつた。
そういう状況です。
これは私は聞いておらないのですが、玄関の柱に赤旗を交叉いたしまして、人民管理の警察ができたのだ、こういうことを言つておつたそうであります。それは時間にしまして、六時過ぎにやつたのではないか、こう思つております。学校に行つておりました警察官が五時二十九分の汽車でもどつて來たのでありますが、その際には赤旗が交叉されておらなかつたと言うので、その時間以後でないかと思います。
それも署員から聞いたのでありますが、時間は判然いたしませんが、市内の数箇所にいわゆる檢問所を設けて通行人を檢問したというわけであります。それらの警備員は朴重根という朝鮮人が指揮したのでありますが、警備員を命ずるとか、あるいは配置につけというようなことを指示いたしまして、署の周囲、それから市内の三、四箇所の場所に三、四名ずつ出して、檢問所をつくつて、それに対して警察官も一、二名その檢問所にかかつて、署に來るとき尋問を受けた、こういう事例もあります。
それは聞いておりません。警察官を調べたことについて何と言つて調べたかという点は聞いておりません。ただ調べを受けたという報告には接しております。