ええ。
ええ。
デモを盛んにやつて動いたのは七月三日ぐらいまでと思います。
六月の末には、二十六日ぐらいから、もう休ませろという声が出たとかいうことで、半分ずつ三日ずつ休むというようなことを言つていたようでした。そのころにはもうかり出しても大分集まつて來ないというような状態であつたように聞いております。
はあ。
たしかにそうだと思います。不安にかられて、新聞の投書欄にもいろいろ出ているのですが、少くとも白晝警察署の窓ガラスをぶちこわされて、現行犯をつかまえることができないというようなこともありましたし、それからこれは新聞が少し大げさに書いているかもしれませんけれども、市の警察局長が大衆の前にひつぱり出されて、頭をなぐられたというようなこともあるので、これはどういうことになるのかというので、市民、懸民にも非常な不安を與えたと思います。
玄関の前に土げざして尋問を受けたときに、そういうことをいろいろ教えてもらいました。
先ほどちよつと申し上げましたけれど、どうせ二箇月もすれば工場の経営はおれたちがやるんだ。そのときお前はすぐ首は切られる。それで一緒にやろう、ついて来いというようなことを……。
そういうことですな。
町の方はことに激しかつたようですが、船越、海田の家族会議あたりでは、それは盛んに宣傳したようです。
大体この争議のもとは、六月二日に、先ほど申しましたように、会社が発表したことから始まつたわけです。それから六月四日の中國新聞、これはのちの共同闘争委員会の委員長のおられる新聞ですが、それに地域人民闘争を行うとともに云々という記事が載つているわけなんです。この地域人民闘争というのは、一体何かということは私は知らなかつたのですが、その後にいろいろ起つて來るもの、それからそれが権力闘争であつて、町村会議員をおどし上げたり、それから地方権力をおどし上げたり、こういう姿になつて現われて来たわけです。それから六月四日にこういうことを予言したというのはどういう意味なのかという問題と、それからそのほか六月五日には夕刊廣島の記事で、廣島地方会議吉田書
まず日本共産党の方だと思います。
そういうふうに聞しております。
少くとも私の方の工場は平静になりました。
七月十三日に再開しました。
七月三日に第二組合が名乘りをあげまして、七月の八日に第一回の團体交渉を開きまして、その團体交渉の最初が工場再開という問題だけで、それから連日團体交渉を開いておるのですが、結局われわれとしてもその従業員のために、工場閉鎖中は生活を考えると、一日も早く開いてあげなければならないと考える。しかし今開くことによつてまた賠償施設の保全ができないということと、それから流血の惨が起るだろうということで、これはまた四囲の情勢から見て、それを保護してもらうだけの警察力に動いてもらうわけには行かない、そうなつて來ると、これはそういう危険のなくなるまではどうしても工場再開ということはできないだろうというふうに考えておりましたけれども、第二組合が七月三百に
はあ。全部現在は——第二組合とは先月の二十八日それから第一組合とは三十日に調印を終りまして、すべて争議は解決したという形になつております。
ええ、全部できました。
玄関前の廣場で土下坐してやられたのが十二名でございます。
十二日に私が出ましたのは午後の一時ごろです。それから翌朝の六時までです。
私が一等先でありました。