はい。
はい。
所長代理になりましたのは昨年の十一月です。はつきりしたことは今ちよつと覚えておりません。
賠償工場として指定されたのはGHQから指定されました。
昭和二十一年の春でございます。たしか四月か五月だと思いましたけれども、そのときには鉄鋼関係の工場として賠償指定を受けました。それからその後、昭和二十一年の八月の半ばごろと記憶しておりますが、そのころに兵器工場としての指定を受けました。そして直接の管理監督と申しますか、そういう命令その他は廣島軍政部から受けております。それで管理責任者として廣島縣知事、それから私の方の工場の製作所長が管理担当者ということになつております。
大体において昨年の十一月ごろから非常に金融面においても逼遣して参りました。それから約二千百人の從業員を持つておりまして、大体月々の生産目標としてあげておつた額が六千八百万円から七千万円という生産目標を立てて、いろいろ仕事を続けておつたのですが、最近の半年くらいの間は大体四千五百万円がらみ、仕事が多いときでそのくらい、少いときには四千万円を割るというような状態が続いておりました。工場の力としては七、八千万円の仕事はできる自信は持つておりますが、今年に入つてから四月以降にいわゆる経済九原則、ドツジラインといつたようなものからいたしまして、さらに工場の経営の実態を再検討した結果、廣島製作所として受注し得る金額が三千八百万円、こういう結論に
労働協約につきましては、先ほど申し上げました中央経営協議会において、日本製鋼所労働組合連合会と本社の社長との間で、その協議を本年二月末から開いているというかつこうなんでございますが、それには廣島からは勤労部長、勤労課長、人事課長というような人たちが出て来て、いろいろ協議したわけでございます。
そうでございます。私はその詳細については今ここで、暗記しておりませんが、概略のことを記憶にあることを申し上げますと、二月末日に会社案の労働協約の案を出しまして、それを審議を始めた。そしてたしか三月の初めから半ばごろまで、経営協議会と小委員会の間でその案を練つたのでございますが、これは大体新しい労働組合法その他の法規の改正の素案をもとにしてつくつた案なのでございます。その後四月に、ちよつと日にちのことは覚えておりませんが、次官通牒その他が出た関係上、新しい労働組合法に最初の素案といくらか変つたところが出たというので、会社案に若干の修正を加えまして、またそれをもとにして議論をし、五月の三日が古い労働協約の有効期間の切れる日でございますの
協約有効期間満了後の就業規則並びに労働契約に関する覚書といたしまして、五月二十四日より無協約になるについては、表記に関する取扱いを左記の通りとする。一、就業規則、かつこして賃金規則、災害給與金規定、その他項を並べてありまして、就業規則並びに会社、組合両者協議の上調印決定した労働協約並びに給與に関する決定は本有効期間満了後にかかわらず残存するものとする。但し將来これを変更する必要があつた場合は、個々の問題につき法令の定めるところによる。昭和二十四年五月二十四日……。
そうでございます。
さしつかえないと思います。
三千八百万円の受注を元にいたしまして、それへあらゆる経営のいろいろの作業の方式の改善とか、その他を織込みまして、ある程度の配置轉換も考えるということで経費の節約の案も出しまして、結局において約七百名の人員整理をしなければ工場が立ち行かない。それでその七百人を減らしました残りの約千三百五十名くらいの人間になると思いますのですが、その千三百五十名の人間を配置いたしますれば、三千八百万円の仕事ができる。こういう次第でその調書を提示いたしまして、六月六日までに一應組合の考えを聞くということを申してありますので、それを無制限に延ばされたんではこちらは非常に困りますので、一應何分の回答を六月六日にもらいたい、こういうふうにして提示いたしました。
それでその日の説明会が終つて、組合の代表がおのおのの職場に帰りますと、もうすぐにその日の午後からは無許可の職場大会を各所で開き始めました。これに対しては翌日抗議を申し込んでおいたのでございますが、引続いて三日には午前中組合臨時大会を開かして欲しい、こういう申出がありましたので、これはかねてから約束してありましたので、許可もいたしましたし、結局午前中というのが午後一ぱい、まる一日費して組合大会を開いたわけです。そうして結局その組合大会の決議を持つて参りましたのですが、それは五項目くらいの決議で、その一つに馘首絶対反対というのが一項目、一番大きな問題でございました。その六月三日になされた決議が、結局このたび解決に至るまで終始一貫した組合
それでは大体二日以後の組合と会社との交渉の経過並びに争議状況について御説明申し上げます。三日はそういうことで組合大会で終日暮れまして、決議文を所長に持つて来たということで終りましたのですが、四日からは組合の大体の情勢といたしましては、首切り絶対反対の署名運動と称して、これを工場の中でそういう帳面を持つて、課長、工場長、あるいは部長クラスのところまで各職場ごとに、事務所にいれば事務所に、七百人の人間で取り囲む、また表に出ればそれについて歩いて、首切り反対に署名しろ、こういう運動を行う一方盛んに組合の人たちは外部にも出て行きまして、外部で首切り反対の署名をする。一方社宅街に参りまして、家族会というようなものをつくるためのいろいろの運動を
そのときは六百六十二名、これはいろいろ組合で協議している間に、会社の方でも修正も行いましたし、それから解雇基準について、嚴正に当てはめて行つた結果が六百六十二名という数になつたのです。
そうでございます。
六月十日に組合は、会社が最後の回答をいたしまして実行させてもらうと言つたものですから、闘争宣言というものを持つて参りまして、十一日に会議をした結果それを渡したところが、組合は四時まで各職場で職場大会を開いておりました。そうして十一日は——私の方は、先ほどから申し遅れておりましたが、給料が遅配になつておりました。それで六月十一日は五月分の給料の遅配分の分割拂いを行つた日なんでございます。その給料が、いつも四時の終業時間に渡されるものですから、四時になつて給料を受取るまで職場大会を開いておりました、給料を受取つた後、四時すぎに本事務研の傍の廣場に全員集合いたして、今度は組合大会を開いたわけです。それで勤労課長が組合長のところへ解雇者名簿
人事課長です。
そうでございます。
けがをしたようなことは開いておりません。
そういうことははつきりは言つていないのですが、ちようど六日かと思いますけれども、最初二日に発表いたしましたときは説明会、それから四日以後も説明会の形式でやつておりました。ところが六日だと思いますけれども、突然組合側から今日は團体交渉にしてくれということを言つて來ました。