はい。
はい。
申し上げます。先日の証言のときに私が、引揚げた遺体が三百くらい、いまだに艦内に残つておる遺体が二千くらいと申しましたのは、復員局の方の数字もいろいろ調べましたところ、復員局の数字も二通りありましたので、それを読み上げます。
そうじやありません。それを言いまして、私の方で会社としん調査した数字と全部申し上げます。
私の方は、復員局の一案二案も調べまして、私の会社としましても、生存者と、沈没当時以前に乗つておられた方に相談しまして出た数字が、乗組員二千二百、別に予科練が五百、その二千七百のうち生存者が二百、当時死骸のわかりましたのが二百程度だと思います。私の方は、はつきりした数字を調べて参りましたが、うちで引揚げた数字が二百十三柱と記憶しております。それでいまだに艦内に残つておる数字が、私の方の調査では、約二千残つておることになつております。
五体全部そろつたのはほんとうにまれでございまして、私どもで一体と申しますか、それは両手、両足あるいは頭蓋骨というものを調べまして、それで一体あるいは一体という判別をつけておるのでございます。
足も手も頭蓋骨も判然としたものはまれでありまして、このところが頭とか、あるいはここが手とか、あるいはそれが足とか、判定をしたと思います。、
はあ。
そうです。
予科練は五百です。
初め申したように、生存者と、戦争当初に乗られて、艦を転々とかわられた人に聞いたのです。
はあ。
大体私どもの方で引揚げた遺骨と申しますと、島側の第三砲塔の下の爆発しておつた近所が大半でございまして、二箇所、食堂と兵員室を破つて中へ入りましたところ、兵員室には二名、食堂には相当な数字がありました。時間を見ましても、十八年六月八日十二時十二分前、こういうことをいろいろな情報から聞いておりまして、まつたく当時は昼食前後であつたということが推定されております。これからも遺骨を引揚げるということになりますと、そういう食堂とかいうところを全体的に調査する必要があるとぼくは思うのですが、そういう関係で、部屋と申しますと、さつき述べましたような食堂と兵員室だけしか調べておりません。あとは全部艦体がはじけたときの状態のまま上つて来た。機械の中へ
はあ、そうです。
私どもの今調べている中では、三名でございますが……。
たまに靴が出ましても、そのまわりに遺体がなかつた場合もありますし、それではつきりしませんが、これは全部姓名はわからぬものとしております。
方法といいますと、潜水夫が中に入りまして、搭載物件を引揚げる前に、会社の者を全部集めまして、まず遺体を引揚げて、それから仕事にかかつてくれと、常に私が申しておるような状態で、袋を持つて入りまして、服があると、服の中に遺体を包むようにして、その袋の中に入れまして、その袋を持つて上るようにしております。
大体において一体でしたが、中には一体も三体もあることはあります。
はあ、私の方は揚げまして、すぐお寺に持つで参りまして、安置しまして、それを復員局の方にお知らせしまして、それから復員局の方でそれを焼かれるようになつております。
柳井町ではない、大島郡の伊保田というところがあります。現場の近くです。そこの浄専寺という寺です。
あれは真宗だと思います。