その点に関しましては、我々は、ソヴィエトは赤の國で、魔の國で恐らしい國であるという心一ぱいで、而も日本軍において曾て外國の捕虜を扱つたところのものを我々は見ておりました。捕虜というものはすべてこのように扱われるものと考えて、そうして、そうした氣持が、全然そうしたものを知ろうとするどころではなくて、將校の言うことは御無理御尤も、將校を通して我々はソヴィエトを見、ソヴィエトのものを知るという状態で、本当に最後のところに至るまで全然そうしたものを知りませんでした。
その点に関しましては、我々は、ソヴィエトは赤の國で、魔の國で恐らしい國であるという心一ぱいで、而も日本軍において曾て外國の捕虜を扱つたところのものを我々は見ておりました。捕虜というものはすべてこのように扱われるものと考えて、そうして、そうした氣持が、全然そうしたものを知ろうとするどころではなくて、將校の言うことは御無理御尤も、將校を通して我々はソヴィエトを見、ソヴィエトのものを知るという状態で、本当に最後のところに至るまで全然そうしたものを知りませんでした。
よろしいです。
勿論日本軍隊と同じように、いやそれ以上にそれは行われております。
そうです。
私の言つておりますのは、私はナホトカにおりまして、あそこから十三万近くの日本人を見送りいたしました、決して私個人の問題ばかりで私は話しておるのではありません。
それはその当時シベリアで言われておりました。舞鶴には日本の曾ての軍隊の幹部、特攻の人達、こういう人達が、舞鶴に勤務しているということが、噂としてお聽きしておりました。そうしたものに対して我々は口では大きく言つておりましたけれども、自分としてもやはり若干のそういつたものを恐怖、それに対するところの必要以上の氣持さえも我々は持つていたことは事実であります。そういつたときに杉田君がこれに対して私よりも、我々以上の恐怖を持たれておつたということは彼の私に対して言つたことの話で事実であると思います。
これは全部曾ての軍隊から將校の人たちや兵隊の人たちが持つて行つて、それがそのまま使われておりました。そうしてそれはその当時においては医務室においてやられておつた外においては、誰もやつておらなかつたというのでありますけれども、昨年の夏以後においては全シベリアの收容所が私が先程申しましたような経過を辿つて來て、朗らかに愉快な收容所になつた。ナホトカにおいても碁や將棋が行われております。
ナホトカにおいて民主グループが一般部隊の食糧を「いんちき」いたして我々が沢山食べておつたというこの証言に対しまして、私は非常に歪曲されたこれは証言であると考えます。その根拠と申しますのは昭和二十二年の四月この前後におきまして、ナホトカに何万の人が集つておられたかということは、昨日証言された細川証人もよく御承知だろうと思います。この人達に飯を食わせるために、先日の証言でも申しました通り一万名に足らないところの、ナホトカの人口で五万人以上の日本人をそこのところに收容いたしまして、どのような状態があそこに釀し出されたか、我々が飯を焚くために五万人の日本人に飯を食わせるために、どれほど苦労したかということは先日の証言にも私ははつきり申上げて
それは炊事の糧秣係のところにソヴィエト側から渡されてからは飯を食わせるまで自分がやつておるからそういつておるのであります。そうしてそのようにして、食べさせておるのが二ケ月から三ケ月に及んでおります。そうしたところに民主グループの中で鶴田智君という人が過労と、そうした食糧が二、三日で帰つて行く人は、ただ我々が釜が一つで雜穀を食べさせられて、全部の人がこれ程飯も食わせられないという状態のあつた中において粉を食べさせ、それによつて二ケ月、三ケ月朝から晩まで駈廻つて民主グループが働いた結果鶴田智君はあそこで死んだ。
その質問の最後から答えて行きます。私は責任を負う必要はありません。先日の私の証言ではつきり申上げました通り、昭和二十二年の三月の二十日船が來る、こういうので、ナホトカに集結をする態勢を整えたということを私は申上げております。その際においては小針証人もその時分おりました。三月二十日それに対して我我は準備いたしました。ところが二十日に船が來ないために、毎日々々來ておるところの日本人がそこに溢れて五万人以上結果においてなつたのであつて、私達としてはせいぜい一万人足らず……、私達というのはちよつと間違いましたけれどもも、ソヴィエト側といたしましては一万人足らずの人が、このナホトカで滯在し、次々船に乘つて帰るという計算でこれはやられております
非常な不平を持ちました。
私が一年間ナホトカにおつて、絶対にあそこに船が來て明日乘せないということは一回もなかつたということにおいて、大勢あそこに日本人がおつて、そうして反動分子は民主グループが後送した、逆送したといつておりますけれども、これは事実はあのナホトカの收容所において船が來なくて、沢山の人をあそこで養うということが困難なために、他の收容所の方に行つて労働をやつて貰うというのが、ソヴィエト側の眞実のこれは状況であつたのです。これは或る人が見たならば反動分子だから、民主運動をやらないから、こういうふうに思われるかも知れませんけれども、私達としては條件が余りにも困難な場合においては、むしろ民主運動をやつておつたところの優秀な人達に事情をお話して、そうして
お答えいたします。その点に関しましては手紙、こう委員長は申されておりますけれども手紙ではなくして、いわゆる一つの証言と申しますか……
各人の聽取書のようなものですね。これがその人の言うたところの津村君のことを非常に悪く言つていたということを出されておるというのを、私は新聞が出るまで杉田君が死んだということを知つておらなかつたということを証言いたしたのであります。
お答えします。生温いというのではありませんでした。やつておることは同じなんです。ただそのやつておることが、結局事務所の中に入つて來るにも、靴を脱いでおどおどしながら入つて來るというのと、私の方はがたがたしながら入つて來るというのと違うという点を私は申上げたのであります。
そうであります。
お答えいたします。さつき四國証人が申されましたように、民主グループとして、又勤務者として帰らないことを希望せられた際におきましては、私達の方でソヴィエト側にお願いに参ります。これによつて残つて頂いております。兵士大会、大衆カンパ、こういうふうに言われておるものによつてあすこで残されたという者に関しましては、これは明らかに、戰犯として残された者だけでありまして、それ以外に直接兵士大会、それのみによつて残されたことはないということは、私は先日の証言でも五十名内外ということをお答えしております。それで細川証人の場合のようにソヴィエト側が……、我々があすこに残るのは、自分から欲した以外の者は、やはりそこの利己的なものが出て、帰りたい人達はど
お答えします。増渕証人は法務中尉であられまして、又同じ行つたのにナホトカ民主グループにおつた西村久宣中尉、それかの中野、木村二人の通訳、大宮忠一兵隊、こうしたものも一緒に戰犯容疑としてスーチャンに連られて行つております。ここにおいて調べる調べないは、スーチャンに佐官以上の人は、これは戰犯容疑として挙げられております。そこで調べられる調べられないは順序によつて必要のない者は調べないし、そうして容疑のはれたものは次ぎ次ぎに帰つて來るというのが私の見ている現状であります。
民主グループの二十名の者に対する策動というものは、全然ありません。
そうであります。