三十数万という食い違いがあるのは、政府の発表にあつたのを私字が読めますから知つております。しかしながらこの三十数万の数字、これが行方不明になるということは、われわれがあの敗戰当時めちやくちやな中において、こうして日本に帰つて来た。その過程をいろいろ考えてみると、当然のことであると思います。しかもそのことに関しましては、日本の政府がやはり責任を持つて、終戰以来のあらゆる事実をはつきりさせたならば、この三十数万の行方不明の人数は明確になるだろう。こう考えております。
三十数万という食い違いがあるのは、政府の発表にあつたのを私字が読めますから知つております。しかしながらこの三十数万の数字、これが行方不明になるということは、われわれがあの敗戰当時めちやくちやな中において、こうして日本に帰つて来た。その過程をいろいろ考えてみると、当然のことであると思います。しかもそのことに関しましては、日本の政府がやはり責任を持つて、終戰以来のあらゆる事実をはつきりさせたならば、この三十数万の行方不明の人数は明確になるだろう。こう考えております。
そういうことを私考えてみなかつたものですから、ちよつとわからないのです。
帰りたかつたです。
具体的に日本新聞その他において、われわれは見た記憶が現在ないのですけれども、終戰当初われわれの間において、今自由党がとつておられますけれども、共産党が日本の政府になつたならば、われわれは早く帰れるだろうということが、何にもわからないなりにもそういうことを言つておりました。
そういうことは知りません。
記憶がありません。
家族が入党したならば云云ということは、私はやつたことはありません。聞いたこともありません。
それではお答えいたします。小針君に関しましては、彼は昭和二十二年の一月にナホトカに参つております。その際に私はナホトカにおりまして、第一回の昭和二十二年の一月に船が出て行つたあとナホトカに残つておつたのであります。こうして小針君一行の部隊をあのナホトカのその第三百八十收容所にお迎えをいたしました。それから私達、元からあのナホトカにおつたところの大隊は、第一次大隊といたしまして、民主同盟という民主グループを作り、小針君の第二大隊も民主グループを作つて、二つの民主グループが一つの收容所の中にあつたまま、ずつと輸送再開まで続いております。なぜこの二つの民主グループが一つの收容所の中にあつたかと、こう申しますと、大体小針君は最初に日本新聞社
今のところで止めるのですか。
今止めたら変ではありませんか。
では杉田君のことについて……
私が五月の二十九日にナホトカから乘船いたしました。ところが船に乘つてから各中隊の幹部が全部集められまして、民主運動を向うでやつて來た者の名前を知らせろということを言われました。そうして私の所属しておつたところの最後尾の中隊の中隊長は私のところに飛んで参つて、そうして聞かれて止むを得ずあなたの名前を言つてしまつた。こういうふうに私のところに言つて來ております。それで私は船宝の立派なところに連れて行かれまして、いろいろ御丁寧なるところの御挨拶を受けて、その中で暫くいろいろなことを聞かれ、調べられました。そうして舞鶴に私は着いております。六月の一日に舞鶴に上陸いたしました。さつきの小針証人の証言にもありましたけれども、いろいろ私としても差
事実をそのままですね。——それで私がこれから述べます。私は舞鶴に着きまして、そうしていろいろ四日間に亘つて徹底的な取調べを受けました。最後の日、私は調べられた際に、杉田君という名前を知つておるかということを私は聞かれております。でその節においても、杉田君は非常に君のことを悪く言つておつた。杉田君はナホトカにおつて氣狂いの眞似をしておつたそうだ。こういうことを私に言い、そうして私のことに関しては、いろいろ私を個人的に憎んでおるところの人達、これは向うで兵士大会や、その他にかかつた人達が恐らく大部分であると思いますけれども、そうした人達が、いろいろ私の箸の上げ下ろしからのいろいろの情報をあの場に提供しております。そうした私の証言と一緒に
で私はこの話の途中で申上げたいのは、委員の人達で笑つておられる人達もあられるようでありますけれども、私は非常に眞劍な氣持で話しておる。そんな笑われるようなものであつたならば、人を喚び出して人が死んだ生きたということを私に聞かれる必要はないと思います。
責任をとれと、こう私が言うたということに対しては、ちよつと速記録に書いてあるところを読んで見て下さい。
委員会が責任を取れということに対して、私はちよつと今、証人私として眞劍な問題を私は話したつもりであるのです。そうしたときに笑つておられるので、ただそのことに対して私は言うたのであります。その責任を取れということまでは言つたかどうかということは私ちよつと今感じを……
さつきの天田委員の質問に対して、私確かに聞き違いいたしました。それで笑つたということにおいて、責任を取れというように私感じまして、全然その記憶がなかつたためにさつきのような返答をいたしました。責任を取れということに関しましては、前に小針証人が言われたと同じようにその意味で私はお話いたしました。
そういう意味において、委員会に責任を取れということは、これは取消します。
お答えいたします。入所した当初において、先日の通称吉村隊事件においてもこれが出て來ましたように、ソヴィエト側から定量配給されておるのでありますけれども、日本軍隊の機構そのままでいたために、將校は、下士官は、という工合で、その給與が一般の兵隊に対しては非常に少い。我々のごときは飯盒の蓋に半分どろどろの汁を我々は食つて、そうして伐採作業をやつた経驗もあります。
食糧の炊事は、日本軍の曾ての経理部の將校、又はその他の炊事係の將校というものがこの人事をやる。全然兵隊にはこのことは知らされておりませんでした。そうして炊事係というのは、そうした將校達の縁故のあるところの人達、こういつた者のみを選んで、自由放題に作つては食べて、その余りを兵隊に寄越すというぐらいのこれは状態でありました。