きようもすわつたままで……。
きようもすわつたままで……。
相かわらずなんです。
どうもすわつたままで失礼ですが、この前と同じような限度でしかささえられませんから、きようも多分そんなに長くお答えできないかと思います。あらかじめ御了承願います。 鹿地亘という名前は、東京帝大の三年生のころ文章を書くようになりましてからその筆名を使いまして、ずつと今日に至つております。
やはり鹿地亘の名で翻訳しております。
この前の証言でお答えしましたように、相手が私を知つてつかまえたか、知らないでつかまえたか、私には何とも申し上げられない。その通りなんです。三橋某なるものは、新聞で見ましたが、私は知りません。別にこれ以上そのことについて申し上げることはありません。
これは私としてはいずれ明白に反駁したいと思いますが、この点に関してはまとめてお答えすることにして、今日は、私としてはからだの状態もありますから、なるべくまず人権問題に関してのお答えを先に申し上げたいと思います。
拉致されたことに間違いはないと思います。それから、いずれにせよ、何らの手続なしに逮捕され、拉致され、そうして拘禁されたわけでありますから、この点について不法監禁は非常にはつきりしておると思います。それから相手方の言いがかりをつけて来る問題の中に、そういうスパイ問題とかいうことがありました。しかし、私にどうしてこういうことを言いがかりをつけるか、私は知りません。そのことに関しまして相手方の意図は、相手方の尋問の最中にかなりはつきりして参りましたが、やがて私が自殺後にその筋書に従つて私にいわゆる自供書なるものを書くことを強制し、それには一定の筋書といいますか、書き込むべき項目をずつと示されて書いたのですから、それを書いてから後そのことに
これは多少説明しなければわからないと思います。
自供書としては一回です。
その他は、私の思想テストというような形で求められた感想をいろいろ思い出してみまして三、四回書いております。
そうです。
これは私が自殺した後、まだ意識薄弱な間でふらふらしている時期ですから、十二月の中ばころ、約一週間ないし十日かかつて書いたと思います。
そうです。
ですから、終つたのは二十日過ぎになりましよう。
これについては、さつき申し上げましたように、疲労し切つて、昏睡それから睡眠を繰返しておる時期でありましたから、詳細について思い出すことができません。けれども今思い出してみまして、こういうことはあります。最初に自分の履歴を書かされたように思います。それから二、三、帰国して後の私の生活環境、そういつたことについての答えを書きまして、そのあとが、つけ加えられた、つまり私にたくらまれた問題であつたように思います。その筋書は大体こういうものです。一九五一年夏に、鵠沼の海岸で散歩中、私は国連軍の上陸演習を見物しているときに、一人の外国人に話しかけられて、朝鮮戦争のことなど語り合つて互いに共鳴したというようなこと、それからその人と知合いになつて、
黄色い大きい状袋に鉛筆と消ゴム――しかしその鉛筆は使わずに、あとでペンを買つて来て、ペンで書きました。原稿用紙はあとで届けられましたが。その状袋の中に以上言つたようなことが項目別に要項として示されたわけです。
捺印はしなかつたように思いますが、日付と署名はしたと記憶しております。
日本の原稿用紙ですから、縦書きです。
ありません。
ありません。私の記憶にはありません。