五十一年三月三十一日以降でずっと継続審議をお願いしておったわけでございますが、一時期、ちょっと日にちを正確に記憶しておりませんが、国会の審議が混乱をいたしまして、継続審議の手続きがとれなかった時期があることは、先生御指摘のとおりでございます。
五十一年三月三十一日以降でずっと継続審議をお願いしておったわけでございますが、一時期、ちょっと日にちを正確に記憶しておりませんが、国会の審議が混乱をいたしまして、継続審議の手続きがとれなかった時期があることは、先生御指摘のとおりでございます。
確かに手続的には廃案でございましたが、その時点での政府の解釈は、単に廃案になっただけで、国会の御意思として、廃止ということが明確に察知できないという状況でございましたので、継続審議と同じ状況が続くという解釈でございました。
日本原子力船開発事業団の研究機関への移行ということにつきましては、先ほど申し上げましたように、五十二年秋の第八十二回国会におきまする審議あるいは修正の御趣旨であったわけでございます。私どもは、その趣旨を踏まえて今回の提案をさせていただいているつもりでございまして、その名称の問題と離れまして、内容的には「むつ」もその研究の対象として扱い、考え、そしてまた将来の原子力船開発に備えましての、長い目で見ましての舶用炉に関する研究の着実な積み重ねということを内容に考えまして、今回の法案を提出させていただいている次第でございます。
原子力船開発のスケジュールが計画どおりに進まないという実態があることは御指摘のとおりでございます。その原因につきましては、多々あるかと考えますが、一つには、行政の立場からいたしまして、研究開発というものが必ずしも当初の予定どおり進むというものではない、そのためには、やはり時限立法というような、ある時点までにある成果を必ず上げるということの計画自体に難点があったのではないかということが基本的にはあるかと考えております。そして、その第二の問題といたしまして、ある事業を行う場合に、やはり地元の協力と理解というものが絶対的に必要なものであるという点の配慮が欠けておったという点が、反省すべき第二の点であったと考えております。
ただいま、原子力船開発事業団を対象に許可を与えた点に問題があったのではないかという御指摘でございます。実態につきましては、安全局長から御答弁申し上げましたが、大山先生のリポートにも問題点の第一として提起されている点がその点でございまして、若干読ましていただきますと、事業団に関しては、単なる事務処理機関的性格が強かったという指摘がなされているわけでございます。すなわち、恐らく許可の時点につきましては、当然、技術的にも責任をとった形での運営がなされるであろうという想定のもとに許可がなされたというふうに想像できるわけでございます。結果といたしまして、事務処理機関的な運営がなされたという点が、あのような技術的な失敗を招いたという第一の原因に
何としてでも探し出さなければならないと考えております。
その当時の記録等をよく調べてみたわけでございますが、若干事実関係を述べさせていただきますと、佐世保港におきます修理につきましては、昭和五十二年十一月、当時の佐世保重工の社長が当時の田村運輸大臣に対しまして、「むつ」の修理を引き受けるという趣旨の口頭の回答を行っているという事実がございます。また、それに前後いたしまして、五十二年の九月から佐世保重工は、日本原子力船開発事業団の要請に応じまして、技術協力職員を派遣いたしまして、遮蔽改修の基本設計作業に従事させているということ、また翌年、五十三年四月になりまして、やはり佐世保重工は、むつ改修工事室という組織を設けまして、工事の実施体制を整えて、五十三年の六月ごろからは「むつ」の回航に備えま
回航に先立ちましての係船契約がなかったというのは事実でございまして、決して好ましいことではなかった、かように考えます。
原因の一つといたしまして、係船料の金額がなかなか折り合えなかったというのが大きなひっかかりになっていたわけでございます。それに絡みまして、交渉当事者でございますSSKと事業団との間の意思の疎通が欠けていた期間がございまして、必要以上に年月を経たという点は遺憾に考えております。
五者協定と申しますのは、佐世保への「むつ」の回航に際しまして、五者、すなわち科学技術庁長官、原船事業団理事長、長崎県知事、佐世保市長及び長崎県の県漁連会長の間で結ばれた合意事項でございます。 その主なものは、いわゆる核封印方式で修理を行うのだということ、あるいは佐世保港における放射能の監視体制を強化するということ、また風評による魚価の低落に対する魚価安定対策について必要な措置をとるというようなことを内容とするものでございまして、ただいまの係船料契約等につきましては、全く当事者間、すなわち佐世保重工と原船事業団との間で締結するものでございます。 なお、その間、先ほども申し上げましたように、なかなか難航いたしましたので、長崎県知
そのとおりでございます。
期限についてはございません。
名称程度しか理解しておりませんで、まことに申しわけございません。
承知しております。
現在、五十三億円を遮蔽改修工事の予算として、債務負担行為として計上しております。
先生御指摘の昭和三十六年二月の原子力委員会決定でございますが、その原子力開発利用長期計画におきましては、原子力船の実用化の見通しにつきまして、まず一九七〇年代の後半、すなわち昭和五十年代の前半には「わが国の海運界においても原子力船がその船列に加えられるものと考えられる。」という見通しを立てております。そういう見通しを基礎にいたしまして、原子力第一船の建造計画につきましては、同長期計画におきまして、一九六八年、すなわち昭和四十三年ないし一九七〇年、昭和四十五年に竣工することを目標としてその建造を進めるというふうに述べられております。
昨年十二月二十日付の原子力研究開発専門部会報告書によりますと、まず、先ほど申し上げました昭和三十六年当時の見通しに対応する部分といたしまして、原子力船の実用化時期につきましては「二十一世紀に入る頃には、欧米先進諸国において原子力商船の導入が相当進んでいる可能性がある」というやや文学的な見通しでございますが、こういう見通しを示しているわけでございます。 そういう意味から申しますと、昭和三十六年当時の計画から見まして、大幅におくれているという点が指摘されているわけでございます。また現状分析といたしまして、こういう状態であるので、わが国の原子力船の研究開発は、陸上炉では相当豊富な実績を持っているという事実を考慮しても、欧米先進諸国に対
先生御指摘の資料につきましては、まさに今日までの原子力開発関係の主要なプロジェクトの経緯が明らかになる資料でございまして、私どもも、原子力船とほかのプロジェクトを横並びに見まして、非常に考えるところがあったわけでございます。 原子力船につきましてぜひ御理解を賜りたいと存じますのは、三十六年当時ブームと申しますか、世界的に原子力船の実用化が近いのではなかろうかとみなが判断しておった時期であったということをまず考えねばならないと思うわけでございます。そういう情勢のもとに、世界有数の造船国であると自負しておりました日本が、早くこのプロジェクトをスタートさせ、そして一番早い方法でこの技術を習得しようと考えたということは、ぜひ御理解賜りた
先ほどの私の答弁の中に、実用化の見通しにつきまして二十世紀に入るころと間違えて申し上げました。二十一世紀でございますので、おわびして訂正させていただきます。 それから、当時の原子力船開発に取りかかるときの姿勢でございますが、端的に申し上げまして、今日になって振り返ってみればという前提ではございますけれども、その間やや焦ったと申しますか、少し拙速、急ぎ過ぎたという点については、私は個人的には認めたいと思います。
このような事態の推移を見ているということについては、いろいろな原因が複合してと申しますか、重なり合ってのことかと存じますが、私、ただいまの先生の御指摘の四点につきまして、むしろ消去法で考えてみますと、予算が余りにも不足しておったという事態はなかったと考えますし、また時間はあったわけでございます。したがいまして、やはり技術の実用化の予測の早まりと申しますか、それも含めまして、将来技術の予測が不正確だった、また、そういう予測に基づきました計画自体に結果として無理があったというようなことが主な原因ではないかと存じます。また研究開発自体を離れまして、やはり国民の理解と申しますか、地元との意思の十分な疎通という点が欠けておったという研究開発の