間違いありません。
間違いありません。
それは今年の五月頃約八十万円で売りました。
それは八十五万だと記憶しております。
それは足利工業におりまして、殆んど私は丸裸同様に出されておりますものですから、生活のためもあり、そういう点で転々と行きました。
それは二重煙突はあとのほうでありまして、一重の……、昭和二十年の丁度十月、はつきり記憶しておりませんが、寒くてそろそろ進駐軍が上つて来たといつて宿舎の準備にかかるときからずつと一重なり二重なりの煙突は続いておりまして、それを頂載いたしましたのは、八軍の、丁度丸の内にアメリカン・クラブというのがありまして、そこに調達部長でケント中佐というかたが来ておられまして、それからドナルド中尉というかたが来ておられまして、たまたま私が外地でそういうかたに御面識がございましたものですから、頂載しまして、それから一重を最初……現在の事件の起きました田中という人もその当時はブリキ屋さんでありまして、何にも財産がなく、そういつたかたでしたが……、ただ非常
その当時、そのかたが知つておりまして、今何をやつておるかと言うから、内地へ帰つて来て何もやつていないと、それで、それなら進駐軍の設営を手伝わないか、進駐軍の調達をするのだけれども、それをやらないかと慫慂されまして、頂戴いたしました。
それは私は中華民国におりまして、中華民国からフイリツピンに渡りまして、フイリツピンの時にそのかたが丁度本間雅晴中将の下に捕虜でおりましたときに知つておりました。
その当時は、多少の資産は外地から送つておりましたから持つておりました。それからその当時帰つて来たので、暗中摸索で、別にこれという仕事もありませんでした。
その頃の金で大体三万二、三千円持つておりました。
私は八月の六日の日に上海から飛行機で飛んで帰りまして、当時足利市の通り七丁目という所に住居しておりました。
今栗山先生のお話ですが、日ははつきり管えておりませんから御承知下さい。大体、最初足利組合、足利板金工業組合というもので大体半年ぐらい続いたと記憶しております。二十年の十一月から二十一年の大体六月頃であります。それから足利板金工業所というのは、それから二十二年の四月から五月頃までと思つております。それから法人にしましたのが、二十三年の三月からというふうに大体記憶しております。
噂はかねがね聞いておりましたが、初めてお会いいたしましたのが二十三年の四月か五月で、先生が退官された直後のように記憶しております。
それは私が中心にやつておりました。
これも甚だ漠然として恐れ入りますが、要するにまだ私も法人といつたようなものの経営も不馴れでございましたので、あるとき勘定ですとか、或いは個々の勘定で振り分けまして、別にこれといつた組織立つたようなことは、その当時金額も小さうございましたものですから、別に意にとめずに個人的な、本当の個人形態のような形でやりておりました。
法人になりましてからはいたしておりますが、それまでは要するに大福帳的に田中さんと話合つてやつておりました。
特調からなり、或いはその当時の建設省から頂戴いたしました金は、封鎖もあり、現金もあり、そういうわけで、主に私が東京におりました関係上、東京の丁度拡張のときでもありましたものですから、ビルを買うとか、或いは寮を買うとか、材科を買うとかいつて、殆んどその当時田中さんは、おれは何にもわからないから、君やつてくれということで、殆んどそういう点にタツチしないでおりましたものですから、私がそういう点は独断的に裁量いたしまして、東京に成るときは百方円、或るときには二百万円とか残しまして、足利に送金しておりました。
それは今……その当時、何しろ私一人でやつておりまして、大体このくらいだろうということで、三百万円くらいあるということで、三百万円の設立をしまして、三百万円ということになつております。
それは第一銀行でなく……帝国銀行新橋支店であります。
それは足利の第一銀行がまだ帝国銀行と言つておりました頃ですから、一行です。
それは当時私が東京におりまして、本店のほうの経理も大体これだけ出たということで、但し材料費もその中に、あとで調べればわかりますが、私もその金額についてはそうはつきりは記憶はございませんが、大体材料を買つたり、寮を買つたり、或いは種々の費用、或いは個人的に使つた費用も、それは生活費でありますが、そういつた点で使いまして、運営の費用にそのくらい使つたように記憶しております。