この紙も鉛筆も私の方で渡しますが、書くのは本人が書きます。
この紙も鉛筆も私の方で渡しますが、書くのは本人が書きます。
メモも調書に……。大体取つたのがあります。
恐らく私達の所で述べたのが真実の証言でないかと思います。というのは、ここで聞いておりますと、暴行とか或いは搜査官の追及が余り激しいので言つた、或いは口に出したというようなことを言つておるようですが、決して今の時代はそういうことはできないのです。うつかりそんなことをしたら、事件そのものがマイナスになります、潰れてしまいますから、非常に調べでは慎重を期しております。現に伊藤証言で、朝早くから夜遅くまで非常に追及されたと言いますが、伊藤あたりは、釈放後三回も四回も調べ官の所へ感謝の意味で挨拶に来ております。又私の松本課長の所へも二回程挨拶に来ております。そうして夜遅くまでと言うので、若し係りがそういうことをしたのじやないかと思いまして、私
これは留置場の出入簿というものを私が書いて来たのです。
これは伊藤です。
直接でないもんですから、そこまで調べておりません。
出入簿は留置場の出し入れごとに、出したときには前に時計がありまして、その時間を書き、又入れたときには入れた時間を記入します。
持つております。メモではないのですが、つまり搜査官の追及が激しくて、本人が心にもないことを言つたのでなくて、自然の陳述のように思われたもんですから、一応私が自分の手帳へその部分だけ書き取つて参りました。
前の方を省略しまして、「昭和二十二年九月か十月頃、民自党代議士渡邊良夫氏から電話で、近く岡崎、丹羽両氏が我が党の代議士増田甲子七氏の政治資金の援助のことで君の所へ行くそうだが、何とか便宜を図つて貰いたい」。これは佐藤の言うことです。「その後二、三日過ぎてから神保町の会社へ私を岡崎、丹羽両氏が自動車で訪ねて参りました。両氏からの話では、渡邊氏からも紹介があつたと思いますが、是非増田さんからよろしく援助して貰いたいという申入れがあり、大したこともできないが承知しましたと、その場で現金紙包にして金二十万円を手渡しました。次に昭和二十三年春頃、両氏が永代橋の事務所に私を訪ねて来て、又増田先生に後援して貰えまいかと申込まれ、その場で現金紙包み
余り細かいことは分りません。
いや、これは伊藤鑛壽氏の事件は私が担当した係長ですから、これを知らないということは言われませんが、片つ方は余り細かい点は聽いてないです。
持つております。
ちよつと調書に載つていたようでしたが、これにはただ何か……。
社長、課長に何とかというような話でしたが、これには出ていません。
何か昭和電工事件で必要であるというので、調書は検察庁の方へ渡したものですから……。
控えというようなものはありますが、三通あつたのですが、私は一通しか持つて来ていないのです。
電気クラブです。
「昨年の六月頃、昭和電工社長が検挙され新聞を賑わせておりました当時は、毎日のように岡崎、丹羽、秋山、吉田弁護士、藤田さんその他二、三人が来て、三階の事務所の奥八畳の部屋でお茶だけで協議しておりました。」……これ全部必要でございますか。
……「協議しておりました。藤田さんが来るときはいつも土田隊長が一緒に来て三階の室の入口の方で張り番をしておりました。私は入口の六坪くらいある事務所に入りましたが、奥の八畳には土田さんが行つてはいかんと言うので、遠慮して殆んど入りませんでしたから、何の話をしていたか分りませんが、その場の空気では事件の揉み消しに何か関係があるようでした。土田さんは私に、藤田さんや僕が来たことは絶対秘密にして呉れということを言われました。そのことから察して、私は重大な協議だと思つておりました。一ケ月くらいの間は殆んど毎日のように来ておりました。昭和電工事件が下火になつてから又以前のように木、土曜日ぐらいに集まるようになりました。申し落しましたが、追放グル
いや、そういうことは絶対にありません。恐らく今私がここで尋問を受けますよりも被疑者はもうちつと気が楽ではないかと思います。お茶を飲ませ、煙草を喫ませ、そうして火鉢を抱えながら……。成る程調書をとるときにはまじめにやりますけれども、大勢取巻いて云々と申しますが、大勢取巻いて頭をこずいたとか、何とかいうことは恐らく今の時代にやつたら、立派な本当の事件が駄目になつてしまいますから、これは絶対にしません。恐らく今度の佐藤の場合も、伊藤の場合も私は直接調べませんが、そういうことがないことを確信しております。