田先生の御指摘のように、海上に単純に二百海里の弧を描きますと、それぞれが重なってくる。その重なった中国からの二百海里の弧は共同開発区域の上を通る。これは客観的にはそのとおりでございます。問題は大陸だなということでございまして、海の上からの境界画定ではなくて、海の底に沈んでいる海底の大陸だなの境界をどうするかという問題で、そこで大陸だなの法理が出てくるために物事はそう簡単にいかないということでございます。
田先生の御指摘のように、海上に単純に二百海里の弧を描きますと、それぞれが重なってくる。その重なった中国からの二百海里の弧は共同開発区域の上を通る。これは客観的にはそのとおりでございます。問題は大陸だなということでございまして、海の上からの境界画定ではなくて、海の底に沈んでいる海底の大陸だなの境界をどうするかという問題で、そこで大陸だなの法理が出てくるために物事はそう簡単にいかないということでございます。
事実につきまして、二百海里の線は中国からも韓国からも日本からも出ておるわけでございますから、中国からの線がかぶっているというのは韓国からの線ともダブっておるわけですから、大陸だなの議論を横に置きましても、韓国と中国との間は、これは韓、中で境界を画定しなければならない、それが行われていないという事実は一つございます。 それから、大陸だなの議論になりますと、これは二百海里の大陸だなとか、あるいはそれよりも自然延長でさらに遠くとかという議論を問う以前に、いつも申しておりますけれども、韓国と中国との間には一つの大陸だなが介在しておりますので、これの境界画定ということにつきましては、すでに国際法的に確立した規則がある、それを基準にしてわれ
御質問の前提である尖閣諸島の直下あるいは十二海里内で石油が出た場合、これは日本が主権を持っておりますから、日本が独自に探査、試掘、開発できるわけでございますが、それを越えたところで探査、試掘、いわんや経済的開発を行うということができるかというと、これはもういまや大陸だなに対する主権的権利が重複しておるわけでございますから、あの周辺につきましては日本と中国との間の主権的権利の重複する大陸だなでありますから、これは境界がはっきりしないうちは勝手に開発するということは許されない。つまり逆に言いますと、その外で石油が出た場合はどうするかではなくて、石油が出るかどうかを探査し試掘するためにも、それはもう開発のための主権的権利の行使ですから、そ
まず、安武先生の方かか外務省が提出いたしました二つの文書による報告、その第一点は、「第六回日韓定期閣僚会議の際、日韓共同開発に原則的に合意しているが、原則的合意に至るまでの事実経過を詳細に文書で報告されたい。」これに対しまして出しました文書による報告のうち、いま先生がお読み上げになったところはそのとおりで間違いがございません。 〔委員長退席、理事福岡日出麿君着席〕 私どもの文書による報告ではその先にもう二点ございまして、一つは、「韓国側提案をもちかえった大平外相は、中曽根通産相、随行の事務当局と協議を行った。」四といたしまして、「韓国側提案に対する日本側回答」——これは原則的合意でございますが、これは「九月八日、後宮大使より
これは先ほど申し上げましたように、非常に非公式に短時間お会いになったということでございまして、私どもの公式の記録には一切残っていないということは先般も申し上げました。これはこういう大ぜいの両方の閣僚が会いまして、この個別午さん、個別会議というふうに先ほど先生もお読み上げになりましたこの注一注二のようなものは、これは事前にきちんとアレンジして公式の個別午さんであり公式の個別会談ということでございますので公式記録にございますが、それ以外に午さんなり晩さんなりリレセプションなりの席で何人の閣僚がどういう問題で話をするかということについては、これはもちろん事前の準備はないのみならず、事後もそれについて正式の記録をつくるということはないわけで
この議事録によりますと、いま先生が言われましたように記録にとどまっておるんですが、何しろこれは論理的に詰めて文章として提出されたものでなくて、答弁としてお話になったことでございますので、その答弁をされた方の意思がどこにあったかということを先ほど私が申し上げたわけでございます。この共同開発のところは、これは「先方も」というのは、中曽根当時の通産大臣の答弁の趣旨は、先方の事務当局でもという意味で言ったことになっているはずだというのは、先方も膠着状態は何とか打開しなきゃならないと思って、そして先方の方では共同開発というのがいいんじゃなかろうかという案があったと、それを朴大統領が吸い上げてといいますか、朴大統領もそれでいいだろうと、それに賛
これはたしか当時の日本の新聞の報道にもあるように、六日の朝ですか、中曽根通産大臣がこの日の朝も金鍾泌首相と朝食をともにした、そしてもっぱら舞台裏外交に精を出した、こういうところを引用しながらおっしゃったわけでございますが、この六日の朝の金鍾泌当時首相との朝食について、当時の通産大臣でおられた中曽根現自民党総務会長に確認いたしましたところ、金当時首相と会ったことについては記憶をしているが、いつだったかなどについては記憶していない、しかし、いずれにせよ金首相は友人として会ったものであるし、閣僚会議、ましてや大陸だな問題とは全く関係のないものであるというふうに御説明をいただいております。これは御引用になりました新聞の記事でもそうでございま
いま先生の御引用になりました新聞記事それから雑誌の記事、これは私どもも読んでおりますし承知はしております。しかしそれが事実ではないということ、またそういうことは外務省としては全く知らないし、またそういうこととも関係なしに政府レベルでは、従来申しておりますような経緯を経て共同開発構想を双方で考えることになったということも、またすでに明らかにしているところでございまして、矢次さんという方がどこでどうおっしゃっておりますか、それはどういう根拠に基づいておられるか私は知りませんけれども、とにかく外交チャンネル、つまり国と国との関係、政府対政府との関係では大統領から外務大臣に話があり、そして在韓国の日本国大使から韓国政府に正式に原則的な合意を
後の方は、先生御自身も新聞の記事を引用したものですとお断わりになりましたので、新聞の報道としてはそういうことがあったと思いますけれども、それは事実とは異なるということをはっきり申し上げる以外には御説明のしようがないと、こう思います。 韓国に対します経済協力の問題は、これは日韓大陸だな共同開発というようなものとは別に、従来とも韓国の民生の安定向上と経済の発展に資するものであれば、これは重要な隣国として日本としてなすべきことを筋を通して行っていくという基本方針に変わりはないわけでございまして、当時の閣僚会議で経済協力の問題が議論されたことは、これは正式の議題としてまじめに双方の閣僚の間で議論されたわけで、そのことと共同開発構想との間
ただいま資源エネルギー庁長官が御説明されたとおりでございます。
外務省といたしましては、いま御指摘になりましたような要望書を受け取ったとか、そういう要望を受けたとかそういうことはございません。外務省は通産省の方に技術的なあるいは資源についての専門的な知識はいろいろとお教えいただきましたけれども、協定、つまり、共同開発構想というものを本当に資源開発に役立つものとしてりっぱな協定にできるかどうかという点に専念して交渉したわけでございます。
外務省の立場からいたしますと、そういうことを聞く必要がなかった、こういうことでございます。
私は、瀧口社長が言われたといって御引用になってることが、けしからぬか、けしかるかということとは別に、外務省といたしましては、どういう方式で共同開発が可能であるかということについては、まず主管官庁である通商産業省と緊密に連絡をとりながら、その御意見を聴取しながらやるのはまず当然でございますし、またそこから生ずる、たとえば漁業に及ぼす影響ということになりますれば、これはその主管官庁である農林省水産庁の御意見を徴しながら進めるというのも当然のことでございまして、外務省はりっぱな協定をつくるために関係各省庁と緊密に連絡をとりながら各条項の交渉を進めたということでございまして、外務省が直接、その関係業界なり会社なりに何らかの相談をするとか、意
この東シナ海の大陸だな開発に関連しまして日韓協力委員会から働きかけがあったかという御質問でございますと、そういう働きかけは一切なかったということでございます。
矢次さんから外務省への働きかけはありませんでした。
日韓協力委員会はこれは政府機関ではないことは御承知のとおりでございまして、そこでどういうことがあったかは私どもは存じません。共同開発構想が具体化されるに至りました経緯につきましては、いままで私どもが繰り返し申し上げているような経緯で政府間では話が進んだわけでございますので、いまおっしゃいましたようなことは私どもの存じない話でございます。
いまの新聞ですか雑誌ですか、出ました話は私ども知らない話だということは何回も申しておりますが、事実関係につきまして、一つ全くあり得ないことになることがございますので。 これは金山大使と後宮大使の交代期であったので云々のようにいま伺いましたけれども、金山大使は昭和四十三年の七月十五日に着任されまして、四十七年の一月八日には帰朝しておられるわけでございまして、昭和四十七年の七月の二十八、二十九の両日ソウルで行われました日韓協力委員会の時点ではすでに金山大使は韓国大使をおやめになって半年を経過しておるわけで、交代期で双方の大使が、後宮、金山両大使がいたというふうにもし言っていられるとしますと、それは記憶違いのことをおっしゃっているんじ
事実関係につきまして御説明しておく必要があると思いますのは、ただいま先生が御指摘のように一九七〇年、つまり昭和四十五年のころからの議事録をいろいろ御引用になりましたが、この一九七〇年という年はどんな年であったかと申しますと、これは韓国が一方的に国内法をつくるのではないかということで、日本政府として重大な関心を韓国側に申し入れていた時期でございます。その翌年の一九七一年から、再々申しておりますように、日韓大陸だなの紛争、法律的な紛争が明確になりまして、そこで法律論争を重ねたのが一九七〇年、七一年、七二年と続いたわけでございます。いま御引用の日韓協力委員会の常任委員会はそのころの委員会でございまして、それが政府に圧力をかけるというような
そういうことはなかったと先ほど来申しておるわけでございまして、私自身が一九七一年の法律論争の最初からずっと本件の交渉に直接参加してまいりましたので、はっきりと申し上げられることでございますけれども、日韓協力委員会との関係というものは一切なかったと、これは断言しておるわけでございます。
先ほど申し上げましたように、私個人の記憶及び外務省で持っております記録によりますと、日本外務省といたしまして、日韓協力委員会に日韓大陸だな協定の問題について説明ないし意見を求められて何らかのお話をしたとか、あるいは岸信介氏矢次一夫氏に何か説明に行ったかというようなことは、何ら残っていない、こういうことでございます。