そのときの二千四百七十万ドル、それは二十五万カラツトに対する値段であります。それからあとは、たとえばごく小さい、こんな小さな石ですね、これは初めの格付のときには、ヨーロツパのダイヤモンドのカツテイングの市場が復活しなかつたために、品物が払底でかなり上つておりました。ところが二回目のときにはそれがぐんと下つて、普通の状態にまたもどつております。
そのときの二千四百七十万ドル、それは二十五万カラツトに対する値段であります。それからあとは、たとえばごく小さい、こんな小さな石ですね、これは初めの格付のときには、ヨーロツパのダイヤモンドのカツテイングの市場が復活しなかつたために、品物が払底でかなり上つておりました。ところが二回目のときにはそれがぐんと下つて、普通の状態にまたもどつております。
それは本来はロンドンで相場が立つわけなんです。とにかく世界の九割七分のものをあそこのシンジケートが押えておりますから、それをいろいろな方面の国が買いとつて、またみがきにかけたり何かしますから、そこで本来は相場が立つわけでありますが、ロンドン・シンジケートの相場というものは、これはおそらく大口の人に対する相場でありまして、私がこれくらいのところをとつたら、大体の標準のところに行きはせぬかと思うのは、アメリカがそのうちの大部分を工業用並びに宝石用に輸入しておりますから、あそこが一番手取り早いと思うのです。同時に、ヨーロツパはどうも直接の通信なり関係がなかつたために、大体ニニーヨークの格付をとつております。それは大量に取扱う人の値段と、そ
あそこの格付を今の標準から見ますと……。
大体一カラツトの標準のものは、色が白くて、きずがほんの見えるか見えない程度のもの、あるいは色がちよつとあつて、カツトも中のものでごくきれいなものというのを、大体のあそこの標準にいたしまして、それで一カラツトのものを四百五十ドルにふんでございます。
日本の円に換算すると、一カラツトが十六万二千円ですか…。(「日本の時価相場は」と呼ぶ者あり)日本の時価相場はそれに対してもつと高いのであります。しかしそれを一個のものを売つたり、あつちにやつたり、とつたり……。
それは向うの委員さんに申し上げたのですが、一個のものを私どもが持つておりまして、これはどうです、買いませんかということでやつておつたら、それは今の相場では二十万円あるいは二十二、三万円くらいまで行くだろうと思つております。しかしそれは非常に不同であります。
それはその家によつてまちまちでありまして……。
それは若干あります。
それはつまり新聞の発表でありまして、たとえばアメリカの国内でドビーヤスが発表しておるのでは、ダイヤモンドーカラツト当り三百五十ドルから七百ドルまでというふうに書いておりまして、それはそのときによつてわかりませんが……。
それはついこの間調べたのですが、五一年度分の年産額は千五百万カラツトになります。そのうち千万カラツトはアフリカのコンゴから出ておるのであります。それは宝石用ダイヤモンドも工業用ダイヤモンドも一緒になつた量でありまして、宝石用というのはその中の何分の一かに該当するのでありますが、その価格は、宝石用ダイヤモンドの方が半分よりも多いくらいの現状になつております。
申し上げます。軍需省当時の手当は今ちよつと記憶しておりませんが、大体日給五十円くらいじやなかつたかと思つております。それからあとで五百円か何か山田の方に送つてもらいました。私は割合に回数が少いので、軍需省の関係ではどれだけもらつたかちよつとはつきりしておりません。 それから進駐軍の方に入りまして、最初私はアメリカ軍の雇い人だというつもりでおつたのです。それでドルに日本の円をかえるとわずかなものだというふうなことを言われる人がありまして、それでそのときは一箇月固定給千五百円、それから一日の手当、つまりその他の日当は百円ということにきめておいたのです。それから家はどうするか、食糧はどうするかという問題は、最初はアメリカ軍の方で、それ
大蔵省は私日給三千円をもらつておりました。
現在の財産は、伊勢の山田に家が一軒あります。それから現在平河町に地所並びに家がございます。
ちよつとわかりません。
ちよつと申し上げます。私は別に鑑定主任ではありませんでした。何かというと、あれは久米に聞けとかなんとかいう話でありまして、私も鑑定主任ならば主任のようにもつとやりたいところもあつたのですけれども、片一方に兵器行政本部のやつをずつとやつておりまして、とてもそんなゆとりも何もありませんから、私はただ参加していただけのものであります。ですから今の主任ということは当りません。
その事務的なことは全部交易営団の方でやつております。どれだけ集まつたのか、またはどれだけの量が入つておるのか、私は全然知りません。
ところが、私は交易営団に関係し出して、それからずつと引続いてやつておりましたのが二月まででありまして、そのあと私はごめんをこうむつて、伊勢の山田の方に隠退しためです。それからあと鑑定室は、松屋の二階それから桐生の方に行つて、あそこでやつておつたと伺います。
それはちよつと記憶にありません。なぜかと言いますと、松屋なりそれぞれのデパートから来るものは、その封のまま再鑑定所に送られまして、そうしてたしか係りの女の事務員もおつたと思いますが、それに封を切つて渡されて、そうしてその内容を検査するのでありまして、私なんかそのケースを一々ノートにとるとか、あるいはきようは何個やつたかとかいうようなことは、一向私は念頭にとめませんでした。
ちよつとわかりません。
その記憶は私どもは全然何もありませんね。調べる方法もおそらくないのじやないかと思います。