次に、僻地教育の問題ですが、確かにいま僻地の先生方が苦労していらっしゃる実情はよくわかるのでありますが、ここで二点ほどお伺いいたしますが、一点は、市町村の財政状況を勘案するような方向が書いてありますが、私は僻地というのはこれは大体貧乏な村にきまっているので、財政状態を勘案する必要はないと思うのですけれども、これはいかがですか。
次に、僻地教育の問題ですが、確かにいま僻地の先生方が苦労していらっしゃる実情はよくわかるのでありますが、ここで二点ほどお伺いいたしますが、一点は、市町村の財政状況を勘案するような方向が書いてありますが、私は僻地というのはこれは大体貧乏な村にきまっているので、財政状態を勘案する必要はないと思うのですけれども、これはいかがですか。
僻地は貧乏だから二分の一でなくて十分の八にしたいという御要望は私もよくわかります。ただ、先ほど来申しましたように、財政状態を勘案するまでもなく貧乏だというふうに私は思っております。それから、この中で僻地手当の件でございますけれども、僻地手当に支給割合がきまっておりまして、この支給割合を最低百分の十から百分の三十にしたいと、こういう御要望はよくわかるのですが、そのほかに最低保障基準額というものを設けられたのは、これはどういう理由なんですか。
その最低保障のきめ方なんですが、私はやはり本俸に対して何割ということならよくわかるのですけれども、この一律の額になりますと、何か実費弁償のようなものを、たとえば宿日直の実費弁償は定額でいいと思う。定題なら定額で私は根拠があると思う。しかし、定額の上にさらにまた給与に対して比例さしていくという二つのお考えをお持ちになったことは、私はますます僻地手当を混迷ならしめるのじゃなかろうか。たとえば二級地の先生が五千二百五十円、五千二百五十円というのは一体どういう根拠なのか、あるいは四級地の八千七百五十円という、非常に芸がこまかいのですけれども、そういう最低保障額というのはどういうところから算出されたのか、ちょっとお伺いしたいと思うのです。
御趣旨よくわかりましたが、むしろ私は僻地にりっぱな先生を確保するには給与だけでは解決しないと思うので、私はぜひ、これから将来校長や教頭になる人は、必ず一回は僻地の教育を体験してみるというようなこともあわせて考える必要があると思います。そこで最低保障額についても、これは実はもうちょっと御検討いただきたいと思うのです。費用弁償主義なら私は費用弁償主義でもいいと思うのですけれども、どうもいまお話の点は、何か平均額を算出したというようなことでございましたので、どうもこの最低保障額が支給される根拠が弱いような気がいたします。この点はひとつ今後御検討いただきたいと思います。 それから最後の問題でございますが、市町村給与負担法の改正でございま
これで質問を終わりますけれども、私は教員の超過勤務の問題は、学校におったからそれが超過勤務になるというのでは非常に不公平じゃなかろうかと思う。ある意味で裁判官と同じように、家へ帰っても教育の問題で頭が一ぱいだと思うのです。家でやったものは超過勤務に入らない、学校にたまたまおったものが入るということはこれは不合理だと思う。私は教員の勤務の実態は一番裁判官に似ていると思うのです。裁判官のような私は給与体系を確立することに、与野党一緒になって私は努力していただきたいと思うのであります。どうもこの超過勤務の案には、私、心から、あなたのお気持ちはよくわかるけれども、賛意を表しかねているのです。
次に、学校教育法の一部改正についてお尋ねいたします。この法律の中で助教授の下に助手、養護教諭の下に養護助教諭、寮母及び実習助手が含まれておりますが、これらの任用資格はいかようになっておりますか。
助手だけ大学出ということ、あるいはそれに準ずる者と、こういうふうになっておって、寮母と実習助手については、いまの御説明ではその資格はないと、こういうことですか。
これらの職種を法律に明記されることは私はけっこうだと思うんですけれども、それとの関連において、教頭とか、校務主任とか、あるいは定時制主事とか、通信教育主事というようなものがございますが、これらも当然、学校教育法に明記しないと不均衡になるのではなかろうかと思うのですが、この点はいかがお考えでございますか。
教育公務員特例法の中の適用にいたしますと、いまはこれらはたしか準用だと記憶しておりますが、特例法の適用公務員にいたしますと、いかなる実益があるのですか。
そうすると、法をただ整備していくというだけですと、これは小野先生、あまり意義がないというわけですか。
それは精神的な意味においてですか、実益が何かあるわけですか。
私の質問を終わります。
主として直木先生にお尋ねいたしたいと思いますが、先ほど先生のお話、一々ごもっともでございますが、私ちょっと気になりましたのは、推古天皇のころははっきりいたしますけれども、それ以前のことにつきまして先生非常に断定的にお話がございましたけれども、私はこれはやはり推定の域を出ないんじゃないか、先生はいろいろ古墳その他考古学の観点からおっしゃったけれども、この点については史実がございませんので、この点はやはり先生の推定だというふうに理解してよろしいですか。
先ほど民族の神話の話が出ましたが、やはり私は神話というものは民族の感情というもの、その当時における祖先の人々の心の中にあるものが出たと、この点はあなたもお認めになったようですが、その中で、先ほど伺ったときに、たとえば八岐大蛇、白ウサギの話も私はあると思うのです。八岐大蛇の話は民間の伝承だった、それで神武天皇のほうは民間の伝承じゃなくて、多分に政治的な色彩が入った、こういうふうなお話がございましたが、私は同じじゃないかと思いますのは、やはり天照大神に剣を捧げるということは、天照大神が豊葦原瑞穂国から始まるわけですから。と考えてみるならば、これはやはり天皇制につながっているのじゃなかろうか。ですから一方が民間の伝承であり、他方は多分に政
これはいずれにしても神話のことですから、それをこうだという話は、あなたの断定を下されるのは、私少し行き過ぎじゃなかろうか、それは一つの御意見として承っておきますが、八岐大蛇の伝説にいたしましても、あの当時の出雲の家族が出雲を平定したのだ。そうして天照大神に統一されたのだというような解釈をする人もあるわけですから。そこで、確かに神話には、私は民族感情とか、その当時の何か国民的な願いが入っていると思う。これは先ほど平田先生からもお述べになったのですが、確かに聖徳太子のときの辛酉の年というのは革命の年であり、それから起算したのだというお話、私たいへんごもっともだと思う。そうしますれば、そういう民族感情というものが当時あったことは事実だ。日
それはあなたの御意見として承っておきますが、それから次に、こういう話が出ました。諸外国では建国記念日は確かに革命記念日が多いことも事実でございます。私はそれと日本の場合は違うのじゃなかろうか、日本の国というものは、ともかく皇室が百代続いたか、その代数までは正確でないにしても、えんえんと今日まで続いたことは、これは事実なんですね。そこで西洋の場合には、フランスの場合にもイギリスの場合にも、王さまが殺されて、そして民衆が権力を確保した。こういうことは史実に明らかなんです。だから、それをとって建国の記念日にされたということは私はわかると思う。ところがわが国では、幸いにそういうことはなくて、天皇がほんとうに君民一体の政治を行なってきた、それ
イギリスでは「統治して治せず」ということわざがありますが、私が、日本の国の天皇はさすがに統治して治せずだ、だからいま、あなたが先ほどお話しのように、天皇支配の体制だとおっしゃったけれども、私はそう思っていないのです。天皇はむしろ徳をもって立てられた、仁徳天皇のお話もございますように、徳をもっておやりになったのだと、ですから、ある意味では非常に長く続いたとも言えるのです。そういうことを考えますと、私は天皇主権ということばだが、ことばというものが非常に吟味されないで、非常に観念的、抽象的に使われているわけですよあなたのお話のように、天皇というものが政治の実権を握ったということは非常な例外の場合だけで、大部分はだれかが代行しておるわけです
私がお尋ねしたのは、主権在民になったのだということと、天皇家が続いておって日本の象徴であるということは、これは昔もいまも変わりはないのじゃなかろうか、実際、天皇の権力をだれかが実行するわけです。たとえば、徳川将軍が実行するなり、あるいは総理大臣がおやりになるなりして、大部分は、大体は天皇がおまかせになってきたと思うのですよ。ですから、ただ主権在民という民主主義の原理になりますと、これは選挙制度、選挙ということが当然行なわれるわけです。だからこの点は私は、いまあなたが国体が非常に変わったんだというふうにおっしゃったが、私は歴史的事実を見ると、そんなに変わってないんじゃないかというふうにお尋ねした。
最後でございますが、最近、東大の名誉教授の坂本太郎さんがおっしゃっているのに、戦後の歴史教育というものは、科学性を強調するあまり、史実は教えているが、歴史を貫く精神に欠けておると、こういうことをおっしゃっているのですが、これについて先生はどういうお考えをお持ちですか。
これで終わりますが、私はこれは平田先生にお伺いしたいのですが、とにかく明治以来八十年、二月十一日でお祝いしてきたわけです。それは私は明治維新というものは、やはり日本の近世国家の発展において非常に大きな役割りを果たしたと思う。先ほどお述べになった聖徳太子の十七条憲法以来の非常な画期的な時代であったと思う。その時代に、ともかく二月十一日というものをきめたわけなんです。そして八十何年近くもこれが励行されておった。この場合に、これを今度変えますとね、何か明治という時代というものは間違いだらけであったというような印象を与えるおそれもありゃせぬか、これについて歴史研究家の平田先生はどういうふうにお考えですか。