きのうそう言つたということそれ自体が、自分ではまずいと思つております。少し日にちの観念、そういう関係からそのことに関して食い違つておりますことを訂正しておきます。石田氏に申し上げたことは取消しておきます。
きのうそう言つたということそれ自体が、自分ではまずいと思つております。少し日にちの観念、そういう関係からそのことに関して食い違つておりますことを訂正しておきます。石田氏に申し上げたことは取消しておきます。
きのう申し上げたように、ハバロフスクの南の本線、極東鉄道から六十キロ密林の中に入つたハバロフスク州のオボール、それからコムツモール、それからエバラン地区へ入つてムーリー、それからソビエト・ガワ二一港(ポートガワニ)それからホルモルという地区のエバランという収容所、それからゴーリーという收容所、それからハバロフスク、大体それが歩いた大きい収容所の名前です。その中で一番長くおつたのは、オボールの收容所に四五年から四七年の六月まで一年半、それからハバロフスクの一年、コムソモールの八箇月、それが一番長かつた。
それは收容所によつて違います。いわゆる民主運動の発展過程における——反動闘争と唱えられておつた、そういう収容所の民主運動の過程が違うことにおいて、反動に対する扱いは全部違つております。民主運動の流れの中における反動闘争というのは、大体の流れは同じであります。
そうでございます。
ソビエトとしては軍事捕虜という立場から、たとえば糧秣の問題について述べますが、軍事捕虜という立場からは同じものを支給してくれるであろう。しかしながら日本人のアクチーヴというのが、炊事の班長を通じて、いわゆる反動闘争のために糧秣を減らして支給する。あるいは食器なども洗わずに支給するというように、精神的にまず食い物で参らせる。それは糧秣に対する一つの例でありますが、四七年の暮れごろから、特にそういつたものが目について来ました。
入ソ当時のオボールの前半は最もひどかつたのでありますが、後半は、反動に対しての糧秣はさほどではありませんでした。いわゆるコムソモリスク、ソビエト・ガワ二一、エバラン、そういうところに入つてからは、そういう反動に対しての差別待遇は特に強かつたと思います。
それは種類によつて違いますが、ロシヤの新聞、たとえばプラウダ、あるいは太平洋の星などにソ連記事として出たような場合には、政治部員がそれをわれわれに読み聞かしたこともありますし、あるいはアカハタ新聞の転載記事、あるいは日本新聞に出ているような特殊記事、そういうものは日本人の反ファシスト委員会のアクチーブというものが交代でわれわれに読み聞かしてくれたこともあります。
感激というと、どういう意味ですか。
別に聞いておりません。
それは一回聞いたことはあります。
それは聞いたことはあります。いわゆるそちらでしつかり勉強して、民主主義者となつて帰つて来いというような意味のことは、私はよく聞いたことがあるのです。
一回引揚げ要請に関しての日本共産党の手紙が、向うの新聞に出ておつたことを記憶しております。そのほかは記憶しておりません。
いわゆる徳田書記長の手紙というものに、それが出ております。
それはハバロフスクの十六分所におつたときに、民主委員長から聞きました。十八分所ではそれが黒板に掲示されておりました。
それを見ましたし、あるいは民主委員長が全員点呼のときに、その記事を読んだということもありました。
そういうわけではありません。こういうような日本共産党からの手紙であると読んで、爾後食堂あたりに掲示されておりましたし、十八分所に転属して行つた場合にも、野坂參三氏からの手紙の記事が出ておつたことを記憶しております。
いわゆるシベリアの民主運動というものは、ソ側の捕虜の共産化のプランに基くものであるとはいいながら、いわゆる側面からの援助者としての日本共産党と、赤い糸で結ばれておるということを見のがすことはでき得ないということを直感しております。
私個人の問題としては、帰国するために名前が発表された。しかしながらいよいよ営門を出るるときに、かねがね反ファシスト委員会から、この人間はデモクラートではないと目された人は、ABCDというように向うのMVDの人から名前を呼ばれて抽出されまして、結局残されたということを私自身四回経験しております。それから見ていただいて、状況を判断していただけばおわかりになると思います。
特に去年でありますが、平塚運動のいわゆる労働の英雄といわれた人たち、——前職が憲兵、警察、特務機関、あるいは細菌部隊でない人たちで、平塚運動の参加者は去年大体全員帰国の第一條件として選抜されました。
中にはいわゆる史的弁証法、ああいつた教育のもとに自分の世界観をその世界観に持つて行つた人たち、そういう人たちは別問題としても、自分の世界観がそうでなく、いわゆる帰国をするためには着物を着て帰るのも一案であろうという見方から参加されておる人もずいぶんあると思います。私自身は、帰国のためにそういうことを選ぶことは私の自尊心が許さないといいますか、世界観そのものが違うのだという気持から、反動として来たのであります。