理論と現実と一致していないということをまず感じます。こまかいこととしては、唯物論あたりの映像というような問題に関しましてはいろいろおりますが、この問題は抜いて、ともかく現実と理論というものが、私の見た客観的なものと一致していないということが一番大きな見方であつたと思います。
理論と現実と一致していないということをまず感じます。こまかいこととしては、唯物論あたりの映像というような問題に関しましてはいろいろおりますが、この問題は抜いて、ともかく現実と理論というものが、私の見た客観的なものと一致していないということが一番大きな見方であつたと思います。
もしこのまま帰れなかつたらシベリヤに死ぬ。死んでもやがてたれかが伝えてくれるであろう。だが心理としては帰りたいというので一ぱいなんです。ですからやがては帰れるだろうと……。
知つております。
任務としては、カドールの養成ということが一番目的だと思います。ヴルシエヴイーキ的カドールの養成、二番目は作業能率の増進、そういう方向に持つて行く推進力としての団体、そういうものと記憶いたしております。
日本人がですか。
四七年の十一月、コムソモリスクの第六分所というところにおりましたときに、食堂に帰国に関する申請権といいますか、それを日本人アクチーヴが持つということを檄した檄文が張り出されました。それ以後日本人の帰国問題に関して、ソ連側の軍事捕虜という立場からMVDが人員を発表しておる。日本人のアクチーヴというものが、イデオロギー的に民主化されてないという人間を調べておりまして、日常行動、あるいは不満のあつたということから、そういうリストを日本人がつくつておるのであります。そういうリストを出して人名が発表された場合に、政治部員あるいは向うのMVDに通達して削ります。私が先ほどお話したコムソモリスクにいる部隊というものは、帰国するものをソ連が軍事捕虜
青行隊が民族独立青行隊と名前をかえたのは、四八年の秋ごろだつたかと思います。沖縄の軍事基地化、あるいは横須賀の軍事基地化等、アメリカの軍事基地化というものが露骨になつて来たということを日本新聞で発表しておること、いわゆる日本が植民地化されつつあるときに、民族は滅び去つて行くという輿論が日本新聞には相当出ておりましたので、そのころからハバロフスクの日本新聞社あたりでは、各支所に青行隊とか、あるいは突撃隊、あるは独立青年同盟と名前を打つておつたのを、民族独立青年行動隊というように名前をかえて来たように記憶いたしております。
先ほどお話したように、沖縄の軍事基地化、アメリカの植民地化政策、そういつたアカハタの転載記事も出ておるのでありまして、そういつた意味から、内地で叫ばれたのと、大分向うの民族運動との流れは結びついておるのではないかと考えます。またアクチーブが、われわれの民主運動の動きは日本に直結するのだということを特に強く叫んでおることから、私はそういうふうに思うのであります。
もつと具体的な例をあげれば、野球の巨人軍の水原という選手がシベリアにおるときにアクチーヴであつた。舞鶴に上陸してすぐ転向声明書を発表して、どこかのスタジアムで野球選手として出発した。このようなアクチーブはわれわれの組織の破壊者であり、そうして寝返りをうつ人間であり、最も組織の中の人間としてたたき出さなければいけない。反動としておる連中よりもなおひどくやらなければいけないという記事がすぐ日本新聞に出ましたし、これなどは大きく、初号活字で日本新聞に出された。組織者、組織の裏切者として、まず組織内の強化とともに、反動闘争というものが激化しておる。そういう意味で内地の方のあるいは三鷹事件、平事件、舞鶴事件のような事件が、みな日本新聞を通じて
例をあげれば、私の收容所で、元関東軍司令官の高級副官をやつた村上という少佐がいます。この人は士官学校の生徒隊長であつた人であります。十三分所におるときに、全員のつるし上げ、カンパ、あるいは経済闘争、人身的な攻撃、そういうものに負けて、いわゆるここに転向声明式というものが行われたのであります。時代の流れ、世界の流れというものを眺め見たときに、今までの日本人の民族優越性とか、あるいは八紘一宇の考えは間違いであり、やはり歴史の歯車のまわるのを目撃し、新しい民主主義者として出発しなければならない。そこで日本新聞を通じ、あるいはそういつたテキストを読むことにより、あるいはつるし上げ何十回、あるいはそういう精神的、肉体的なこと、あるいは個人的な
私自身が帰国できるということは、当分はだめである。ポツダム宣言、捕虜そのものの国際的な何も考えて、やがては帰れるだろう。だがこうしてシベリアに埋れ木になるかもしれない。自分自身としては絶望というか、実際問題としてそう思つておりました。しかし自分の世界観までまげてそういうことはしたくない。私自身が去年十二月二十八日に晩飯を食つておつたら、すぐ一時間後に帰国の準備をして出発しろ、集合しろというので、何のことかわからないが、ナホトカに行つてもナホトカから帰されるであろうという予想のもとに、全然帰国ということは考えておりませんでした。とにかく行くだけ行け、営門でも名前がピツク・アツプされており、個人所持品を検査して、書いたものは全部取上げら
入ソした四六年の三月ごろから五月でしたか、木村搬文という、全関東軍将兵に告ぐという、あれが出てから特に強くなつたと記憶しております。
木村搬文というものができて、間もなく友の会というものがつくられたのであります。
私自身の收容所は七百名くらいだつたのです。
收容所によつて違いますが、私のところでは百名くらいだつたと思います。
四七年の夏から秋にかけて、民主グループの名前にかえられたと記憶しております。
いわゆる自治生活としての友の会には、大体半分くらい参加しておるように記憶しております。
二十二年八月から……。
流れは同じでありますが、名称だけがかわつて行つただけであります。まだ友の会とか、民主グループの間では各人の自由的な発言もありましたが、それ以後において、いわゆる八月以後はプロレタリア的に完全に切りかえられました。
それから収容所をずつと動きましたので……。