はい、本人でございます。
はい、本人でございます。
国産化の現状と申されましたが、この航空機の開発とかあるいは生産とかございますが、これは非常な総合力を要するものでございまして、ちなみにこれに携わっております会社は百二十社を超える、あるいは勘定の仕方によりましては三百社を超えるというような膨大な底辺を持った産業、航空機工業でございます。御想像いただきますように、航空機というのは三次元——空を飛ぶというようなことでございますので、単に空気力学的な問題だけじゃなしに、エンジンもございます、あるいは中の装備もございます、あるいは材料もありとあらゆるものを積んでおります、使っております。かようなものでございますが、この総合力を要するものでございます。 振り返ってみますと、昭和二十八年、日
川崎重工の概括的な現況の中における航空機事業本部の占める状態はどうかと、こういう御質問だと理解してよろしゅうございますか。——今年度は——失礼しました。五十年度の状況で売上高で申します。五十年度は川崎重工といたしまして約五千億の売上販売額を持っております。その中で航空機事業本部、これは四百七十億円の売上げでございまして、一〇%弱と申しますか、その程度でございます。ちなみに人間の数から申しますと、重工全体で三万三千人おります。そのうち飛行機に携わっておるわれわれが三千三百人、ちょうど一割に相当しておる、その程度の規模でございます。
四十五年にいま御指摘の調査研究委託契約はいたしました、受注いたしました。そのときの心境というあれでございますが、その前に私どもは昭和四十年ごろから独自に仕事を、研究をやっておりました。したがって、そういう調査を正式に委託されたということにつきましては、われわれのその対潜哨戒機というものに対する立場をまず防衛庁側がお認め願ったと、何とかこれ花咲かしたいというようなところが偽らない考え方だったと思います。
その四十五年度の契約を締結することによって国産化がもうかたくなったとかいう印象はございません。われわれが従来経験してまいりました防衛庁との契約というのはたくさんあるわけでございますが、そういうものの流れ、手続、政府筋がやられる調達というものの動きというものから照らしましても、開発がこれで前提となったなというような感じは持っておりません。持っていなかったと言った方がいいですか。
生産に何年かかるかというようなことにつきましては、私どもは記憶しておるところによりますと、生産——まあこれ言葉のあやですか——開発といいますか、七年かかると、開発完了までに着手して七年間だというのがその当時のわれわれが、だれに、いつということは記憶ございませんが、お話しした数字でございます。 それから何年、もう一つ質問、ちょっとあれでしたが、ちょっと二番目の質問につきまして……。
そうですが、どうも。
私どもはいつを起点ということではございません。メーカーとして何年かかりますということでございまして、一つのスケール——尺度になるわけでございまして、それはお使いになる政府筋がそのスケールを合わして、ここで欲しいからじゃ何年前になるとか、こういうことの意味で言っておるわけです。
いいえ、もう、その四十五年の調査研究とは全く無関係でございます。しかも四十五年の調査研究の意味というのは、そういうことを論ずるのが主眼ではなかったように思っています。
四十八年度で起点にするというまあ石破先生のあれですが、物理的にそういうことはできないんじゃないかと思います。といいますのは、執行されたと仮定してとおっしゃいましたけど、仮定いたしますと、その結果を見て、こう踏まえて判断されるわけでございますので、予算要求とか、あるいはわれわれもこういう財政支出のやり方承知しておりますので、間に合わないと思います。したがって、それ論じられるのは四十九年度だと思います。これは思うということでございます。物理的に私はそういうことは不可能だろうと思います、四十八年を起点にするということはですね。
はい、ただいま現在承知しております。
実は、私はこういうことをまあ批判するような立場でないかもしれませんので、まあ全く当然のことでしょうが、個人的なことで済いませんけど、「この種の高度の技術的判断を要する問題」についてどう思うかということにつきましては、この問題のとらまえ方が政府側でそういう御判断をなさっておることでございますので、なぜそうしたかというようなことにつきましては、その裏——御判断の基礎を、私、これを読む限りではわかりませんので、批判の限りではないように思っています。そのように判断されたんだなあというとり方しかできないと思います。まことに答えにならぬ答えかもしれませんけれども……。
いまおっしゃったように、もうそっくりそのままでございまして、その当時——いまも変わっておりません。遜色のないものができるということは確信しております。
国産開発するものの値段と外国との値段とどれくらいになるかということ、御質問の趣旨は私はこのように理解してよろしいかと思うんですが、まあどの程度の差で安くできるのか高くなるのかと、こういうことだと理解したそういう答えをさしていただきますが、この単価とか、いろいろおっしゃいますけれども、数字というやつは非常に前提条件が問題でございます。いま先生御指摘の機数の問題もございます。いつつくるんだという問題もございます。あるいは、どんなペースでつくるんだと——月産何機くらいつくるんだというような、いろんな条件がございますし、その前に、ここで言っておる国産開発というものは一体何だという問題が、これがもう先決でございます。どの大きさのどんなものなん
私は実際は技術屋でございません。したがって、技術的な細かいところの評価とか、そういうようなお答えは実際はできないので不適かとも思いますけれども、一般論的な私の見方ということで御勘弁願いますと、まあ現存しておる対潜哨戒機では確かに第一級のものだと、まあ文献それからその他でもよくわかります。ただ、メーカーの立場から見た場合に、この機体は二十年前に設計されたものでございます。それからターボプロップ機でございます。非常にわかりよくいいますと、プロペラ機でございます。それから電子機器というのがやはり非常に重要な要素で、これは事実そうでございます。潜水艦を発見するやっぱりディテクターといいますか、こういうものはすぐれておるかどうかというものも非
いま現在、四十七年ですか、白紙還元になり、あるいはその後専門家会議ができ、その答申に従って政府筋ではいろいろ御作業をされておると、したがって、われわれはどうだということだと思いますが、私どもの方ではいま約二十名の程度の人間を継続してアサインといいますか、仕事割り当てをやってPXLの継続研究をやらしております。といいますのは、われわれ、これが私どもの川崎重工の主張すべき技術の一つなんです、対潜哨戒機というものにつきましては。したがって、その国産開発であろうがあるいは輸入であろうが、そういうことをもちろん望むところはありますけれど、これ自体が私どもの技術的な拠点の一つでございまして、そういう性格上いかなる状態になっても対潜機に対しては私
いま石破先生、私は元自衛隊だということ、出身だというお話ございましたが、確かにそれは二十八年、九年とか非常に古い時期でございまして、余り最近のあれはあれで、自衛隊とのつながりはありませんけど、対潜哨戒機が必要かどうかということにつきましては、私は非常に客観的なお答えをさしていただきたいと思うんですが、私なりの。といいますのは、約二十年間防衛庁さんとおつき合いしています、この航空機の世界で。そういうところから、自然発生的に、門前の小僧的に、防衛庁さんがどんな仕事をされておるかということをよく、やっぱり二十年もやっておりますと、その中身、細かいことはわからなくても、わかります。そういう立場から、防衛庁さんはひたすらやはりきょう現在法で与
いま御質問二つあったと思うんですが、一つずつ、まず一つ答えさしていただきます。 これは単に想像でよろしいというお話でございますので、自衛隊員のこのロッキード事件に対する影響はどうだったということにつきましては、これはもう全くお答え、ちょっとできないと思います。どんな影響があるかというような、私もその場におりませんので。 それから二つ目は、企業マンとしての考え方が多分に入っておるやろうと、そう理解していいかと、そういう個所があったかと、ちょっと正確にはようつかまえなかったですけれども、結局やっぱりその体制の中におりますのであれですが、こういう国政レベルのお話につきましては、企業だからという意識は私はそれをむき出しにしておるとか
ここ五年間程度のとおっしゃる、いま現在ちょっとその資料持ってませんが、いままでに何本ぐらいだというようなことはちょっと実は調べてまいったあれがございますので、それでよろしゅうございましたらお答えさしていただきます。 航空機関係でヘリコプターが約三百機でございます。それから固定翼関係で約三百機の——プライムとしての固定翼機三百機です。それからサブプライムといいますか、共同生産やったものにつきまして約三百機、合計九百機ばかりのものを受注、生産、納入いたしております。そのほかにオーバーホール関係で二千五百機ばかりのオーバーホールをやっております。そんな規模でございます。それが飛行機の世界でございまして、ミサイルは一つございます。対戦車
四十五年当時は私は岐阜工場の方で航空業務部長をやっておりました。それで、いま読み上げられました契約当事者お二人は東京におりまして、営業方面を担当されておった重役並びにその受託者と——営業本部長といいますか、それが三沢でございます。で、私は岐阜におりまして、航空業務というところの部長をやっておったという関係でございます。