つまり日本政府からこちらにいただくときには受取を出しております。しかし連合軍から、これだけのものをどうするかというようなことは、連合軍とこちらとは品物の受渡しについては直接関係はない。縣廳なり、中央連絡事務局なりの御当局に対して受取を出しております。それに関連しまして、各社がストツク、リストをつくりまして、どこに何があるというこまかい表を出させましたのでございます。
つまり日本政府からこちらにいただくときには受取を出しております。しかし連合軍から、これだけのものをどうするかというようなことは、連合軍とこちらとは品物の受渡しについては直接関係はない。縣廳なり、中央連絡事務局なりの御当局に対して受取を出しております。それに関連しまして、各社がストツク、リストをつくりまして、どこに何があるというこまかい表を出させましたのでございます。
こういう仕事でありますから、初め委員会を毎日のように開きまして、仕事の行き方について相談をいたしましたが、どうしても事務局を完備しなければいけないというので、事務局長を選びました。これは鉄鋼統制会の会長の推薦で藤澤君を選びました。藤澤君は鉄鋼統制会の原料の方の班長をしておつたと私は思います。それから、むろん事務局長の下でだんだん職員の整備ができたのでありますが、方々の会社から出していただきました。ただ非常にむづかしい問題は結局仕事が日本中に拡がつてまいりましたのと、それから各社ともいくらかずつ違つたやり方で仕事をする習慣がついておりますから、一定の方法をとることがなかなか困難でございまして、委員会といたしましては、なるべくこれを一定
一九四〇年十月から一九四六年、終戰の次の年の四月まで日本鋼管に関係しておりました。
さようでございます。
さようでございます。しかし日本鋼管の役員として兵器処理委員会の委員長になつたのではなく、日本鋼管からは渡邊政人が委員として兵器処理委員会に出ております。私は日本鋼管でなしに、今の渉外関係のお世話をしておつたことから選ばれたと思つております。
私の感覚が鈍かつたかもしれませんが、私は日本鋼管の役員であるにもかかわらずやらされたのでございますし、自分は日本鋼管の役員であつたから日本鋼管のために仕事をするというふうな考えでなしに、御奉公するつもりで進んでまいりましたので、そのときにすぐに日本鋼管をやめるということは考えませんでした。しかもこの仕事は献身的にやらなければならぬということで、收入にも何にもならない仕事でございましたので、何とかして食うことも考えなければならなかつたので、こう思うのでございます。
その当時は私どもはそういうようなことを考えずに、とにもかくにもこの貴重なるものを早く処理して貯藏しなければならぬということばかり考えておりましたから、後日これがために非常に疑いを受けるとか何とかいうことは、私としては想像もしておらなかつたのであります。
そういうことはいたしたことはございません。
ございません。
私は自分がはこの仕事を請け負おうとして運動したなどということは絶対にございませんということを皆さまに申し上げたいと思います。
経済團体のメンバーの中には神戸製鋼の淺田氏あたりははいつておられたと思います。古河の方はどなたがはいつておられたか、私はあまり個々の会員については存じておりません。
おられたと思います。
おられたかと思います。
と思いますが、私名簿もよく見ておりません。
私はその方々と相談をしておりません。
あとで伺いましたけれども、その当時はあまりよく存じておりませんでした。
全然関係はいたしておりません。
その契約につきましては、お話は初めからあつたのでございます。始終打合せをしてどういうふうにやるかという相談を進めてまいつたのでありますが、混沌たる時代でありましたので、なかなかいろいろな條項がまとまらなくて遅れたのであります。しかし契約がないからといつて仕事をやらないわけにはいかないので、仕事の方は進めたのであります。一方内務大臣となぜ契約しなかつたかという御質問でございますが、これは私どなたとするべきものであるかは御当局の指示によつていたしたのでわかりません。
全然懇意ではありません、私は先ほど申しましたように、十月十八日にバラードの所で会つたのが初めてであります。
これはかかりました費用を收入から引きまして、あとを政府にお納めすることになつておるのであります。