はあ。
はあ。
職業は簡易裁判所判事、年齢五十二。
大阪に今度就職いたしました。
大正十一年に東大を出ました。内地で昭和七年まで判事をやつておりました。昭和七年から十年まで天津の総領事館の司法領事、十年から十三年の六月まで奉天の司法領事、それから終戰まで満州国の司法官をやりました。終戰の年の九月十三日につかまりまして、十一月の十五日に満州を出発しまして、チタを経由してウラルに行き、ウラルに翌年の三月二十八日までおりました。三月二十八日からカメノゴロスク、九月になりましてチュアマ、それから翌年の五月から十月ころまでコーカンドにおりまして、ベゴワードというところにしばらくおつて、その年にアングレンに行きまして、翌年の九月までそこにおつて、九月にカラカンダへ移りました。カラカンダにその年の十二月までおりまして、十二月の
たしか五日ごろじやないかと思います。ちよつと日にちのところははつきりしません。初めでした。
着きまして間もなしに、表で点呼をとりまして、その際に点呼が済んだら、半分だけクラブの方に集まつてくれという話がありました。部屋の関係で半分だけ入りました。あとの残りはまた午後集まるということになつておりました。しかし先の半分だけに話があつて、あとに残つた半分には話がありませんでした。私はあとに残つた方に入りました。
そうです。
そのくらいになりましよう。日にちはよく覚えておりません。
十日前後じやなかつたかと思いますが……
ええ、着いて間もなくです。
私らが表に待つておりましたら、話を聞いて来た連中ががやが、や出て来まして、政治部将校であつたか、所長代理であつたかよくわかりませんが、それの話に、きようひどいこと言つた、日本の共産党の徳田書記長から、ソ連の方に反動は帰すたということを言つて来ておるから、諸君はここにおる間に作業をりつぱにやり、思想の方面もりつぱな民主主義者になるように、そうして早く帰るようにしるというようなことを言つておつた、こういうことを出て来た者が言つておりました。
両方の意味ではないかと思います。自分らにとつてひどいことを言つて来ておる、ひどいことを言われた、まあ心配なことだという意味……
何もそういうことは聞きません。
反動を帰すなという依頼があつたから、諸君はそういうことのないように、先ほど申し上げましたような……
そうです。
とにかくみな帰りたい帰りたいという気持でおりますから、大分おそくまで残つておりますから、そういうことでやつかいだなという気持がみなにあつたのではないかと思います。
そうもとればとれるかもしれません。
アングレンを立ちますときに、ソ連の方からは朝鮮人の通訳でしたか、今度はとにかくまつすぐ帰れない、途中でとまるが、とにかく帰るためにそこに行くんだ、そういうことを言つておりました。
言わなかつた。
そうです。帰るつもりでみな喜んでおりました。とにかくシベリア本線の方に出て来れば、どつかで一応とまつて中間集結地でとまつて帰るのだ、こういう予想をしておりましたが、汽車は全然反対の方向に行つて、カラカンダに行つてしまつたので、みながつかりしたのです。