カラガンダの九におりますときに、食堂に日本共産党の事務員らしい人からはがきが来ておつたのをちよつと見ました。私は少し目が惡くなつておりましたので、食堂の薄暗いところで大体一通来たのを読んだ程度で、ほかのはがきは見なかつたのです。
カラガンダの九におりますときに、食堂に日本共産党の事務員らしい人からはがきが来ておつたのをちよつと見ました。私は少し目が惡くなつておりましたので、食堂の薄暗いところで大体一通来たのを読んだ程度で、ほかのはがきは見なかつたのです。
見ないのです。
張りつけてあつたのです。掲示板に……。日本の情勢はよくないからとにかく皆さん現地でがんばつて、りつぱに民主主義者になつて帰つてくれという意味のことではないかと思いますが、あまり注意もせぬ程度で読んだものですから、内容は今申し上げたことについては自信がありません。
それがよくわからぬのです。そのときの印象では、共産党の女の事務員でになかつたかと思いますか……
そうです。
一つこういうことがあります。コーカンドにおりますときに、松岡二十世という人がおりまして、それはかつて日本で刑務所に入つておつたときに、徳田書記長と知合いになつたとか、それが突然そよに行くことになりまして、みなのうわさで、あれは徳田書記長の方からソ連の方に特に頼みがあつて早く帰れるのだ、こういうことを言つておりました。そうして本人は立つて行きました。
ええ、そう言つておりました。
具体的にはつきりした何はありません。想像もあつたのじやないか、ただ先にぽつと一人帰るわけですから……。そうして本人が言つておりましたのには、徳田書記長と一緒に網走の刑務所でしたか、一緒におつたことがあるということを言つておりましたから、想像であつたかもしれない。そういうことからそういううわさか出たのかもしれません。
それが信用できないと思えるのは、本人が日本新聞に詩を出しまして、それが次の日本新聞に載つた。懸賞に当選して載つたことがふるのであります。そうして間もなく日本に帰らずに、ハバロフスクかどつかの付近におるらしいということで、また新聞に名が載つておりましたから、日本に帰らずに向うにおるのだろう、そうしてコーカンドというところより先へ立つて行つたのも、そういう文筆の方の何があるから、ハバロフスクに呼び寄せられたのではないかということも考えられ、たわけであります。
私は思つておりません。
他の人のことですか。——覚えません。
簡單に申し上げます。コーカンドへ行くまでは——コーカンドへ行きましたのが二十二年五月になります……
二十二年であります。その時分まではほとんどこれということはなかつたのです。ただ国際情勢などをみなに伝えたりした程度、書物、パンフレット等をまわしたり、新聞の解説をしたり、その程度でした。コーカンドヘ行きまして間もなく、ぼつぼつそういう民主運動というものが始まりました。ソ連側から任命された民主委員会というものができまして、それに権限をはつきり與えるということになりましたのが六月か七月のころだと思います。その中には収容所の内務のこと、それから帰還問題についても民主委員会に権限を與えるというようなことが加わりまして、それがみなに対して非常な勢力を持つということで、それで民主運動に参加しないものは不利益をこうむるぞというようなことから、非常
それはなかつた……
ありません。
とにかくソ連側にいろいろ思想動向、作業成績等を報告して、何か参考の資料にするのじやないかと思つておりました。
大体ソ連の方で短期講習を受けた若い人が多かつたように思います。
最初コーカンドでは中西という中尉だつたと思います。それからあるとでは兵卒の方の若い人で上田、名前はよし何とかいいました。
カラカンダヘ来ました当時にははつきりしない。と申しますのは、よくかわつたものですから、ロシア語がよくできて、前からそういう運動に参加している、名前は宇野とかいいました。
はい。