放送は社会の中で報道の役目を果たす機関でございますから、例えば衆人環視の中で行われた殺人、そのときの犯人に対する呼び方というふうなものはもちろん呼び捨てにする、そういうケースもございます。社会正義の立場あるいはいわゆる人間感情というふうなことから呼び捨てにするケースもございます。それから、刑が確定いたしました場合は呼び捨てにするというふうなことを原則にしております。
放送は社会の中で報道の役目を果たす機関でございますから、例えば衆人環視の中で行われた殺人、そのときの犯人に対する呼び方というふうなものはもちろん呼び捨てにする、そういうケースもございます。社会正義の立場あるいはいわゆる人間感情というふうなことから呼び捨てにするケースもございます。それから、刑が確定いたしました場合は呼び捨てにするというふうなことを原則にしております。
交通事故の場合は大体呼び捨てにしない。容疑者という名前をつけるということが原則でございます。
いわゆる凶悪犯罪あるいはそのことによって社会的に許しがたいというふうな人間的な感情を起こさせるような事件、そういうふうなものに関して呼び捨てにするということを原則にしたいと思っております。
これがなかなか難しいと思います。正直に申し上げまして、主観的な面での判断が伴うものでございます。そこで私どもでは、このことについていわゆる判断の基準がばらばらにならないように、犯罪の呼称に関する委員会というものを二十四時間常時設けておりまして、その中で問題点があれば直ちに処理をするということを行いまして、なるべくいわゆる偏った判断にならないように、基準は一定するような形に努めてまいりたいと思っております。
放送は常に不偏不党、公正中立てなければいけないというのは、放送法の中に特筆大書してあるところでございます。報道における不偏不党、公正中立というのは、この放送法の精神にのっとってやらなければいけないというふうに思っております。その不偏不党あるいは公正中立という言葉の概念の中に、いずれの立場にも立たない、できるだけ客観的にこれを報道するということが公正、中立の原則であろうかと存じます。
先ほどの主観的にというのは、例えば衆人環視の中でとか、それから事故と先ほど先生おっしゃいましたけれども、そのような起こった犯罪の犯人に対してどういうふうに呼ぶかという場合に、主観の差が多少あるというふうに申し上げたところでございます。それをできるだけ主観的にならないように、客観的、公平な判断でやるために委員会を設けるというふうに申し上げました。今の客観的というのは、いわゆる報道姿勢として客観的な立場をとるというふうに申し上げたところでございます。 〔戸塚委員長代理退席、委員長着席〕
先ほど申し上げましたけれども、原則として呼び捨てにはしない。敬称または肩書、それから容疑者、被告等の言葉を使って、いわゆる呼び捨てということが持つ差別感というものをなくそうということでございます。
そこのところが実はこれまでの問題点であったわけでございます。私どもはこれまで、犯罪に関係のある人はすべて呼び捨てにするというふうなことで実施をしておりました。それを、原則として呼び捨てにしない、必ず何らかの意味で肩書または容疑者等の名称をつける、特別の場合だけ呼び捨てにするというふうに決めたわけでございます。
呼び捨てにするケースというのは極めて少ない、特別の場合であるというふうに申し上げました。ですから、原則としては呼び捨てにしないということが原則なんです。そこで、今先生おっしゃったような、ではそこの判断をだれがするか、これは大変主観的になるではないかという御指摘は、ごもっともでございます。私どももそういうことについては非常に腐心をいたしまして、そのために今の委員会を設けたり、絶えずこのことについての論議を起こして、いわゆる偏った形での主観的な判断だけで行うような印象は絶対に避けたいというふうに思っております。
いわゆる判断の問題ということでございますけれども、編集判断というのは主観ではない。市民感情というのは個人の主観によるものだというふうに思うのですが、私どもが報道をしていく上で幾つかのよって立つ基盤、それはこれまでの社会の流れだとかあるいは現代の社会の判断、そういうものをバックにしておるわけでございます。そういう編集判断を、例えば個人の主観というものでやるべきではない、これはあくまでも客観的な立場でやるべきだというふうに思います。
例えば今申し上げましたことの中で、私が主観と客観ということで言いますと、できるだけ客観に近い形に……(元信委員「そう思っておるだけなんだよ、あなたが」と呼ぶ)ですけれども、その中でNHKの編集判断というものがございますが、それを主観、例えばNHKがそういうふうに判断したのだということを、それはNHKの主観ではないかと言われれば、論理的にはそういうことが言えると思います。
原則としては必ず容疑者もしくは肩書をつける。それから、肩書をつける人と容疑者と名前を呼ぶ人との間にこれまた差別が起こりはしないかということも考えられます。したがって、そのことについての第一回目は、必ず容疑者、つまり肩書をつけた場合でも肩書プラス姓プラス容疑者というふうなことをやって、その後肩書だけにするというふうなことで、なるべくそういう差別感みたいなものは生じないようにしたいというふうに思っております。
交通事故で逮捕された人について報道するときは、○○容疑者または○○運転手というふうなことになろうかと思います。単純な駐車違反等はニュースになることはまずありませんが、例えばそれが原因で事故が起きて逮捕された場合も、報道するときの原則は同じく○○容疑者または○○運転手という形にしたいと思っております。
肩書をつけるというのは、例えばそのことがプロの運転手が起こした事故、それから普通の素人が起こした事故というのでは若干のフィーリングの差がある。これは起こした事故の例えば大きさとか、それから状況だとかいうふうなことからも、プロの運転手が起こした事故だということがわかった方が報道としては非常にわかりやすいということがあります。そのようなときに例えば○○運転手というようなことをつけるということで、原則はやはり容疑者でなければいけないというふうに思っております。
そのような形で処理をしていきたいというふうに思っております。
日本人が外国で犯罪を犯した場合でも、一般的な言い方としてはこの基本方針にのっとっていきたいというふうに思います。ただ、外国での犯罪というものについては大変難しいケースがありますので、ケース・バイ・ケースで判断をしなければいけないこともあろうかというふうに思っております。
IBMの事件の場合は、日立製作所神奈川工場の○○工場長、それから三菱電機の情報処理開発部の○○主幹というように、日本人関係者には肩書をつけて報道いたしました。
肩書をつけました根拠というのは、事件がアメリカ側のいわゆるおとり捜査というふうなことで明らかになり、また犯罪の性格というのが、個人の犯罪ということよりもむしろ企業犯罪のにおいが強い、それから、和解が成立する可能性がある、そういう予測もありました。そのようなことで、この事件については肩書をつけて放送いたしました。
それも理由の一部になっております。
領海侵犯のケースはこれまで起こったことがございません。そういうふうな放送をこの四月二日以降にしたことはございませんので、今即座に私がここで答えるようなケースを持っておりません。ただし、これから起こったら、先ほど申し上げました呼称に関する委員会を招集して直ちに判断をしたい、十分な検討を直ちに私は命じたいと思います。よろしく。