そうすると、条約の方式については、内容は全面的改定、しかも方式においても、結果的に見れば、ちょうど米韓、米比、こういうのと非常に似通った形式になっておるわけですけれども、そういった全面的な大幅な改正にするということについては、藤山外務大臣とも常に相談されてきたものでしょうか。
そうすると、条約の方式については、内容は全面的改定、しかも方式においても、結果的に見れば、ちょうど米韓、米比、こういうのと非常に似通った形式になっておるわけですけれども、そういった全面的な大幅な改正にするということについては、藤山外務大臣とも常に相談されてきたものでしょうか。
その点をありのまま御答弁願いたいのですが、われわれが知らされたとこによりますと、岸首相は——安保委員会が作られたのは三十二年ですね。三十三年の五月に選挙が行なわれましたね。総選挙直後、大体六月から八月にかけて、マッカーサー駐日大使とずっと会われたでしょう。この事実は間違いないですね。いわゆる予備会談といいますか、しばしばマッカーサー大使と岸総理は会われた事実はございますか。
外務大臣の進言によって総理がマッカーサー大使と会われたのは、六月から何回ぐらいですか。それは総理大臣とマッカーサー大使と二人だけの会談ですか。それとも、外務大臣その他をまじえてでしょうか。何回ぐらいやられましたか。
そうすると、今、外務大臣の進言によって会われたというのは、総理が会われたのじゃないんですね。外務大臣自身がマッカーサーと会われているのですか。
そうすると、その外務大臣の出られた会談以外に、総理とマッカーサーだけの会談というのは全然ないのですか、あるのですか。
当時、外務省自身では、すでに安保改定の準備を進めておって、外務大臣、次官、条約局長、アメリカ局長、その他数人の担当官というように、限られた人でその準備を進めておったといわれる。また、防衛庁関係では防衛庁長官と次官、その他ごくわずかの担当官だけしかこれを知っておらなかったといわれるのですが、外務省が条約改定の準備に入ったのはいつごろからでしょうか。そして、当時はどういう具体的な案を準備しておったのでしょうか。
いよいよ本格的に安保改定の交渉が東京で開始されることにきまったのは、三十三年の九月十二日に発表されたいわゆる藤山・ダレス共同声明ですね、これで初めて東京で交渉を開始するということがはっきりしたわけです。しかし、その前の九月十日前後に、日本での各新聞は、外務省がその当時準備しておった具体案というものは大体三つあるというふうな発表がなされているんですが、そのときの具体案というものはどういうものでしょうか。
当時は今の赤城防衛庁長官は官房長官だったと思うんですが、当時、岸さんとマッカーサーの予備交渉、あるいは今申します条約の改定の形式ですね。単なる基地貸与協定のようなものにするとか、あるいは交換公文でもって、あまり手を加えずに、実質的な改定を幾らかやるとか、あるいは新しく防衛条約的なものにするとか、当時三つの方式というものが伝えられておったわけなんですが、そのことは、当時官房長官として御存じだったですか。
その三つの形式があるということは御存じだったわけですね。その三つの形式をどういうふうにしてやるという、案として御存じだったのかどうか。大体といったって、その三つの形式を、きちんと方式を御存じだったのか。ただ、当時何となく予備交渉がなされて、何か方式についても検討がされておるというような、ばく然とした知り方だったんですか。
そのころ岸さんが——これは第一次内閣を組閣されたのが三十二年二月二十五日ですが、第一次組閣当時、岸さんが国民に対する一つの政策として打ち出されたのが、占領政策の是正ということだったと思います。その占領政策の是正を打ち出された当時は、安保条約の改定ということを考えられておったのかどうか。その当時、何かそういったものを公表されたことがございますか。
それから三十三年、台湾海峡の紛争が起こった当時、私どもが注目いたさなければならぬと思っておったのは、あの当時の米国の第七艦隊がとった行動ですね、それと、在日米軍の動き、これについて、当時の模様を私どもはいろいろ調べているんですけれども、なお、今後ともこれを十分調べなければならないわけですが、当時の米七艦隊の行動と、それから在日米軍のとった動きを詳細に御報告願いたい。
部分的にも全然わからないのですか、どうですか。
それでは、当時日本の岩国に駐兵していた米海兵隊は出動をしたのですか、しなかったのですか。
そのときの海兵隊は、たしか台湾、それから沖繩ですね、そうでしょう。このときは移動の名目ですか、それとも、演習の名目ですか。
これは当然事前に通告しなければならぬことになっておるのですが、当時、この出動と同時か、または事前に、在日米軍から外務省または防衛庁に通告があったのですか、どうですか。さっきの答弁では、何か通告がなかったように言われたのですが、その点はどうですか。
しかし、当時、外務省はえらくあわてて、このことを在日米軍司令官に問合わせたでしょう、そして、その結果、非公式会談を開いたのではないですか、その経過はどうですか。そして、当時の在日米軍司官、それから参謀長はだれでした。
そして、これを外務省が問い合わせた直後に非公式会談をやった事実はどうですか。あったのですか、ないのですか。
そうすると、当時の状況では、外務大臣としては、第七艦隊の無断出港については、何ら差しつかえないという考えでこれを放置されておったのですか。
どうも、この条約をどういう内容で、いかなる方式でいくかということについての最初の構想自体にも、当時の状態を見、また、私どもの聞いたところでは、総理と外務大臣の間にはかなりの意見の食い違いがあったように思うのです。それで三十三年の八月でしたか、さっき外務大臣が、ちょっと言われた、渡米前にマッカーサー大使をまじえて、帝国ホテルかどこかで三人で会談されましたね。たしか、あのときは、レバノン問題で国連関係の話し合いをするということが表面の理由だったようですが、このときに外務大臣は、新条約方式でいくという総理の意向を、この三者の会談の席で初めて聞いたというようなことを、あとで外務大臣は述懐しておられたというのですが、どうでしょうか。この新方式
それから、このとられた新条約方式案を、当時、UPIが非常に早く打ってきましたね。その案なるものも、今度でき上がった条約もそうですが、米韓、米比、米タイとほとんど形が似ておる。これは総理としては新条約方式でいく場合には、大体この米韓、米比、米タイをひな形にして、こういう形でいこうということは、以前から考えられておられたところなんですか。