梁瀬美智子です。
梁瀬美智子です。
大正十五年六月一日。
長崎縣松浦郡福江町。
本籍も同じです。
女学校を四年で日赤の方に行つたのです。
長崎縣です。
縣立です。
ただ縣立女学校になつております。
長崎市にあります。
昭和十八年三月十九日に満州の方に應召になつて行きました。
昭和十八年三月十六日です。
昭和十八年三月十八日私はハルピン一四一部隊の七部隊に入隊いたしました。それから日赤看護婦として、見習看護婦として入隊したのです。昭和二十八年八月十六日まで同七部隊病院で勤務しておりました。同年八月二十四日ソ連軍進駐、それからソ連軍が二十年の十二月引揚げて、その次に中共軍に引渡されたのです。牡丹江で一ケ月、ハルピン第一後方病院三ヶ月、チヤムス一ヶ月です。
牡丹江一ヶ月、ハルピン三ヶ月、チヤムス一ヶ月、それからハルピンへ引返した。そこで二十二年五月まで勤務、二十二年五月から延吉の方に來たのです。延吉はやはり後方病院ですが、一年一ケ月おりました。
ええ。二十三年七月の六日まで延吉の病院で勤務しておつたのです。ハルピンで二十二年十二月一日まで勤務していました。
ええ、そうです。昭和二十三年十二月十一日ハルピン出発。通つて來た径路をずうつと言うのでしようか。
昭和二十年からですか。
二十年の八月十五日に終戰が分つたのですけれども、八月二十四日ソ連軍が入つて來たのです。ソ連が入つて來てそのまま自分たはソ連軍の捕虜となつたのです。捕虜となつて、第一陸軍病院だつたのですが、ソ連病院という名前に変りました。ソ連病院なんですけれども、そこに日本の兵隊さんを收容しておつたのです。昭和二十一年の六月までそこに日本の兵隊さんをみておつたのです。二十年の十二月にソ連軍の兵隊さんが引揚げたあとに自分たちは八路軍の病院になつた、中共軍の病院に、そこで中共軍の病院になつたのですけれども、その当時はまだ中共軍も戰争していなかつたので、日本の兵隊さんをみておつたのです。二十一年の七月から九月にかけて内地帰還の時に、そこの第一陸軍病院の患者
二十一年八月より二十二年の五月頃までずつと患者さんがおらなくて、向うに残つておつた患護婦同士は、皆中共軍の政治下ので教育を受けたのです。五月、六月頃から段々負傷兵も出て來たために、各方面に派遣されてしまつたのです。その後牡丹江、ハルピン、チヤムスというふうに轉々と病院を患者護送のために廻つたのです。
昭和二十三年十二月一日ハルピンから自分ちは來る時は五十二名の患者さんの護送という意味で自分は來たのです。その中で大体自分たちは元山から丁度船に乘る予定で來たのですけれども、その船が密航船であつたために、元山から乘ることができなかつた。十二月の一日に向うを出たけれども、元山に約一ヶ月間待ちました。待つておつたのですけれでも、船が來ないので、二三人の同士から、それは朝鮮人の同士です。朝鮮人の同士から聞くと、三十八度線を渡つたら日本に帰れるというようなことをお聞きしたのです。それが確実に、向うへ渡つて果して日本に帰れるか、帰れないかという問題で、誰が三十八度線を越していく人はおらないかというような、五十名の中で問題が出たのです。その中で誰
ずつと船でなくして汽車があるのです。ただ三十八度線だけが船もなにもない。日本の数で三里くらいあるかないか……。