そういうようなことは、国税局が二十四年の十一月においでになつて初めて知つたことであります。それまでは私も存じませず、またそういうようなことも協議したことはむろんありません。
そういうようなことは、国税局が二十四年の十一月においでになつて初めて知つたことであります。それまでは私も存じませず、またそういうようなことも協議したことはむろんありません。
それは経理の方でやつておつたということが、十一月に国税局がおいでになつてわかつたわけであります。
そうであります。
内海運輸組合ですか、そういうようなものは実在せぬと思います。ありませんです。
それは知りませんです。
知りません。
八月においでになつたときには、私病気で休んでおりましたが、御調査が済みました日に友藤さんにお会いしました。そのときに、帳簿の整理も非常に遅れておるようであるから整理をやらせておいてくれ、こういうお話は承りました。それで各係員に、ほかの役員とともに、そのことを十分伝えておきました。
二十四年の五月に東京で倒れまして、帰つてから七月に入院しまして、友藤さんがおいでの八月のときには、まだ休んでおりました。友藤さんがおいでになつたということも承つておりましたので、押して出まして、調査の事情なんかも承りました。
矢頭経理課長から、人が少いからということは聞いております。ほかの役員の人にも、早く増してやるようにということは相談いたしましたが、しかし実行に至らずしておりやました。
事務の澁滞とかいうことに対しましては相済まぬことと思いますが、経理とししましては一生懸命やつておるものですから……。それで十一月に国税局がお見えになつて、いろいろ御調査を受け、お話を承りまして、これぐらいな人員でこれぐらいな日数でできるものでないということを知つたわけであります。
その二十三年、四年の当時の事情は、集排の問題、社長の問題、そういうようなことで、二十四年の五月にこちらで倒れますまでは、ほとんど七割程度東京におりました。それと私は営業を担当しておりましたので、そのときは輸送が相当混乱し逼迫しておりましたから、ただ塩を送るということに全力を盡しておつたように思います。経理は経理の担当者もおりましたけれども、今結果論から考えますと、その点、こういうことがあるのであればいろいろ知惠も出ますけれども、そのときには無関心でおつたということは、はなはだ申訳ない、かように考えております。
二十三年の契約が二十三年の末にできましたそのときは経済状態もかわつております。利益が出て行くというのは、大体想像がつきますわけですが、ただそれだけの莫大な利益が出るということは、主としてプール計算なんです。値下りの利益は大体において見当がつきます。プール計算の利益なるものは、数量の増加とか何とかに対して計数をとらなければわからない。従つてあのような利益が出るとは想像しておらなかつたのです。
言葉を返して恐れ入りますが、プール計算が非常に複雑でございまして、たとえば千円の箇所が千トン、五百円の箇所か千トン、これが順調に出れば企画と同一にできるわけです。逆に千円の箇所が二千トンで、五百円の箇所が千トン出れば、それだけ差がある。積上地の土地によつてはなはだしく運賃が違う。それと数量が、あのときはたしか百二十万トンの計画だつたが、百九十万トンということになつておりますので、そういうようなことは計数を集めなければわからぬことであります。
これは二十四年の初めに、さしあたり機帆船を一割下げてやつてみるということでやりました。それから二十四年の八月、十月にお見えになつて、機帆船三割五分、小運搬も大体それくらいの程度下げる。それに引続いて專売公社として御調査になつて、その整理を集めて行くに従つてそれを調整して行く。こういうようなことで、まだ途中にありましたということを申し上げておきます。
友藤課長がお見えになりましたのは、主として下払いと契約額との調べをしたように承つております。またそうであつたのであります。従つてわれわれ重役間で、これくらいの利益があるからこうこうという話はせなかつた。
それは計数をまとめまして、精算せんければわからぬのであります。さしあたり三割五分、三割ということで、途中にそういうような処置をしたのであります。
そうです。
三割五分とか三割というのは、下払い運賃と契約運賃の差額がそれくらいあるから、今の計数を調べたのではなくて、運賃と下払いとの差額、それがその当時の経済状態でそれだけでやつて行ける、そういう意味においてお受けしたので、その計数上から出たものでない。こうお考えくださればいいと思います。
その引下げましたのは、堺で何ぼ、大阪で何ぼ、それか二十三年七月、まだ純益が上つている当時に支出した賃金、それと大阪なら大阪、堺なら堺というところにおける払いがこれだけある、その差額が三割五分ということでやつておるものですから、計数上の何は出ておりません。
それは独禁の当時にいろいろ御注意も受けまして、会社が運送だけではいけない、多角経営をしなければならぬ、多角経営の形をとるということで、その当時神高物産は香川県にありましたが、食糧の受入機関の県の御許可をいただきまして、会社はその当時集排の関係で神高物産という名義でやらしめて、現在もそうでありますが、平常に復した場合はそういう部門も会社に吸收して、会社としてやつて行こう、こういう考えで、役員間で相談してやつたのであります。