これは私どもの方の会社が大正八年に二百万円で設立されて以来、資本金の増加ということはでき得るだけ避けて、配当金を制限しまして蓄積して行くというような方針でありましたから、会社そのものの資本は戰前まで三百万円であります。しかし三十二年の蓄積によつて戰前におきましては汽船二はい、機帆船四十ぱいというふうに、相当の資力は持つておる会社であります。
これは私どもの方の会社が大正八年に二百万円で設立されて以来、資本金の増加ということはでき得るだけ避けて、配当金を制限しまして蓄積して行くというような方針でありましたから、会社そのものの資本は戰前まで三百万円であります。しかし三十二年の蓄積によつて戰前におきましては汽船二はい、機帆船四十ぱいというふうに、相当の資力は持つておる会社であります。
それは二十一年の特経会社になるまでは、成規の決算書は出ております。それが二十一年特経会社になつて以後は、税務署に対する納税関係の、ただ簡單な決算書が出ておるように承知しております。
お話の御趣意はよくわかます。営業の利益が当時ある程度出ておるということはわかります。それで專売局の方へもその点は話しておきました。ただ先ほども申しましたように、数量の増加とか、プールの何とかということは集計せなければわからない。これが戰前までは一箇所々々々の契約になつておりますから、下払いと契約費を対照すれば、すぐわかるわけなのでありますが、これが平均になつておりますから、その点まではつきりわからぬのが実相でありました。
おりました。
知つております。大橋久一と申します。これは会社で永年勤務して、私なんかよりも早く入つた人間です。非常に律義なもので、会社上下とも信頼があつた者であります。二十年に召集を受けまして、シベリヤから帰りましたのが二十四年の十月でございます。応召前までは経理次長という名はありませんが、経理部長、経理課長という名でありましたが、経理部長の次におつて、矢頭君の上席でもありますし、経理の点におきましては、上下ともそのときの会社においては一番適任であるということで、幸い帰りましたものですから、新任社長その他の人も大橋君をすることが一番適当であると言うし、時はちようど国税局が来まして、整理その他で非常に忙しかつた。それとシベリヤから復員後間もなくだつ
間違いありません。私はそういうふうな考えを持つております。また新任社長からも、ひとつ頼むと言われ、それから自分のことになりますが、あのときにぜひやめさせてもらいたいということは、株主の方々にも、重役の方々にも、地方の役員の方々にも申し上げましたのですが、これを一々申しましたら、地方の役員の方もみなお見えになるし、社員の総代とかいろいろな方が来て、やめるばかりが責任じやない、責任といつて、そういうようなことでは困るということで、不本意ながら、まあそれであれば閑職に置いていただいて、その当時の事情のわからぬことを御相談に応じるくらいならばということで、不本意ながら現在残つております。
井上さんは全般の人事とか総務、まあ專務ですからそういうことをやつて、吉田さんは経理の小切手の署名、経理の担当という役割で、やはりわれわれと一緒に勤めておりました。但し東京におる間が多かつたことは、その方々も私と同様と思います。
国税局から来まして、矢頭君にもよく聞くし、吉田君にもよく聞きました。そうすると、小切手の判もすべて矢頭君にまかして預けておつた。それはかわつた経理部長以来のことであるという御本人のお話で、詳細のことはわかりません。
大体は記憶しておりますが、実際業務を離れましたものですから、今のお話を承つて、それで間違いないくらいのことはわかります。
間違いありません。
間違いありません。
それは全部取締役の津島惣平氏から借りた金でありまして、その第一商事を設立の当初、日本塩回送会社の重役が全部連名をもちまして、この会社は日本塩回送株式会社の株主のものであるという誓約書をつくりまして発足しております。従いまして、われわれの株が五百株になつておるか、千株になつておるか、現在記憶しませんが、すべて会社のものであります。個人としては一株も持つておりません。
仕事の性格が違いますから、全然そういうようなことはありません。塩回送会社は塩の輸送であります。それから第一商事は塩の粉砕と塩の包裝でございます。これは二十三年の塩の非常な危険のときに、專売局におかれまして、食料塩に岩塩をそのまま使わせるのは無理であるから、塩をこまかく碎いて食料塩に代用さすという案に対して、関係の会社それぞれ寄りまして、お前はどこそこに、お前はどこそこということを割当てられました。その当時から、これは永久の仕事でない、あるいは損してもあとを見ぬぞというお話であつた。但し平素御恩顧をこうむつた局のおさしずでもありますから、日本塩回送会社としても、大阪、下関、小名浜、舞鶴というところを請合いまして、日本塩回送会社が機械を
日本塩回送会社からは三万円いただいております。それから第一商事からは一万円いただいております。
これは役員の数と本社内常員の数によりまして、重要な支店は支店長を取締役をもつて当てて来たのが実際の行き方であります。
それはこの機構の改革というのですか、專売局からお入りになる役員の人員と社員から出る役員の人員と大体同数になつております。その関係において、それだけの取締役もあり、支店長もあるということになつております。
それは逆でございまして、專売局からおいでになつた方はいずれも本社詰であります。支店長のごときは実務が主でございますから、実際作業のわかつておる社内から出ておる者が支店長になつております。
矢頭君は大阪の支店長でございますが、大阪は機帆船の出入り、それと貨車の積込みそれぐらいの程度で、店としましては人員においても仕事の分野においても小さい方であります。もう一つは、矢頭氏は本社の経理に入るまでは現地で、尾道とか宇部とか赤穂とかで現業をやつておりまして、現業の方は本人の專門でございます。
それは戰争等で、会社の経理の人間も徴用とか、あるいは応召とかいうことで、順次経理の人がなくなつた。幸い矢頭君も支店において経理係をやつておりましたので、その当時の経理部長の川北君が矢頭君をもらいたいということで、われわれも相談を受けまして、矢頭君を経理課長にいたしました。
沼野さんはやはり專売局から御推薦になつて、会社の社長になつた方であります。その御経歴は神戸の税関長、海運局次長ですか、それから蒙古へおいでになつて、それから会社の方へお入りになつたぐらいのところは存じております。辞任はこの関係でなく、昭和二十三年の夏ごろから沼野さんに対して、もう沼野さんはやめるべきじやないか、近くやめさせるべきだというようなうわさが伝わつておりましたが、二十四年の四月かと記憶しますが、四月の末集排解除と同時に、そのときはまだ專売局でありましたが、專売局から電信でお呼び出しがあつて、後進のために道を開け、こういうお話があつたように聞いております。