広谷君とは幼稚園で一緒であります。広谷君は小樽の市立中学であります。
広谷君とは幼稚園で一緒であります。広谷君は小樽の市立中学であります。
いいえ、小樽市立中学であります。
そうです。
そうです。
はい。
私は先ほどから申し上げておりますように、椎野さんに江川君を特に紹介したことはございません。一度もありません。
それはそういうことも言えるかと思いますが……。
先ほどから申し上げますように、九州というところは広うございますし、九州全体を、あるいは福岡県あるいは長崎県あるいは大分県というふうに、椎野氏は各県をまわつていられます。従つて会つた人はたくさんおられると思いますが、その一人々々を椎野氏が記憶しておらなくちやならぬということは私はないと思います。 〔佐々木(秀)委員長代理退席、委員長着席〕
大体地区の常任をきめます場合は、いろいろあると思いますが、地区で選考いたしまして、そうして上の方の承諾、上部機関の承認がいるわけであります。上部機関の承認を得てきまるのであります。
それは先ほど申しましたように、地区委員会というものが全国に無数にございます。従いまして、そこには大きいところでは数十名のところがありましようし、少いところは五、六人というところもあります。四人ということろもあると思います。その全体の名前を特に人事官か何かだつたら別でありますけれども、とても覚えられるものではないと思います。
労働学校というのは、看板を出していわゆる学校式にやつたのではないので、要するに初めは、先ほどの御質問にもありましたように、同志会の青年部の委嘱で、私が講師で、労働組合法と船員法その他の講義をやりました。それでそういうことが例になりまして、その後同志会の労働学校をやめたあとも、ずつと私の自宅にみんなが集まつて、いろいろそういうふうな勉強をした、こういうぐあいであります。
昭和二十一年の暮から、大体昭和二十二年の春までと思います。
ございます。
毎日々々必ずやるというほどのものでもざいませんし、それからその労働学校の建前は、いわゆる講師の講義を全部聞くというようなあり方ではなくて、集まつた者がいろいろな問題について討議するというふうなかつこうでありましたので、必ずしも講師がいることを必要としない学校であつたわけであります。
再三申し上げました通り、私は中央から九州地方委員会に派遣されておつたのでありまして、大体若松とか博多とか長崎とか佐世保とかいうところをいろいろまわつておつたのであります。三、四日か一週間くらいずついろいろのところの地区の委員会をまわつておつたのであります。というような立場にございましたので、昭和二十二年の夏にお前は若松にいたかあるいはどこにいたかということを言われましても、ちよつとお答えできないのであります。
それはあると思います。何日間か若松におつたかと思います。
そういうことはありません。
必ずしも一般的な慣例はございません。たとえば来方が問題になりますが、国鉄の問題で若松に来られたというような場合は、国鉄関係の党員もしくは国鉄関係の仕事をしておる者が主として会われることになる。
一般的にはそういうことが言えるかもしれません。
私が申し上げましたのは、北九州地区ということです。今の御質問では、椎野氏は九州地区の責任者である。従つて九州地区の最高幹部を知らないことはないであろう、あるいは会つたことはないということは言えない、こういう御質問でありますが、九州地方委員会の地方委員、あるいは常任委員というものと椎野氏とは、九州地方委員会におつた人でございますから、これは御懇意でもあつたと思いますし、始終会つておつたと思います。また私が先ほど申し上げましたのは、九州地方委員会の下に福岡県委員会がある、福岡県委員会の下に北九州地区委員会がありまして、その北九州地区委員会の下にまた若松市の委員会、小倉市の委員会、門司市の委員会というふうにあるのであります。そういうつまり