間接にもございません。江川君に会つたのは、江川君が党に入党するという申込みをされた直後に、会つたのであります。
間接にもございません。江川君に会つたのは、江川君が党に入党するという申込みをされた直後に、会つたのであります。
知つております。
たびたび行きました。
昭和二十二年の暮と思いますが、私が若松におつたうちがおられないような事情になりまして、そして馬越さんの二階を、たしか一月ばかり家族を預かつてもらつたことがございます。
そこのうちを私が借りておるときに、江川君と会つたことは、そこに家族を預けておつたときには、記憶がございません。
その後、その場所が若松の地区委員会になりまして、そこではたびたび会いました。
そういう事実はございません。
今委員長は永山とおとり違えておるようですが……。
いたしました。
ございません。それから今の江川君のお話ですが、亀山なんという人は全然私は知りません。
多少帳簿のつけ方——たしか当時出ておりましたアカハタの収支なんかを江川君はやつておりまして、それがかなり不足分がございまして……。
記憶はございませんです。しかし私はそれを大体全部かぶつたわけです。
そういうことになつておりませんです。ただ江川君が北海道に病気療養のために帰ることになりまして、そのときにかなり穴が明いておつたわけであります。それは多少問題になつたけれども、本人が安い給与で苦しい生活をしながらやつておつたことであつて、本人が、あるいは酒を飲んだとか、何をしたとかかにをしたとかいうようなことでもつて使つた金とは考えられないわけです。そしてことに、先ほど来私証言いたしましたが、江川君は船員でございますし、帳簿をつけるとかなんとかいうようなことが、決して得手ではないわけであります。従つてそういう点を勘酌いたしまして——それはいろいろ人にはだれでも欠点はあることであるが、江川君が帳面のつけ落しがあるとかなんとかいうようなこ
高い給与で働いてもおりませんでしたが、金額は覚えておりませんが、五、六百円のものじやなかつたかと思います。それくらいどうにかできたわけであります。
江川君が若松を引上げて北海道に帰るということは、病気療養のためでございます。しかし、北海道に帰るのでございますから、病気がよくなつたならば、北海道の地方委員会のもとでいろいろと活動するように、そのときに知己というものもないかもしれないということから、広谷君に紹介状を書いたわけであります。
それも先ほどの証言で申しましたが、病名ははつきりしなかつたと思います。
たしかそれも先ほど証言いたしましたが、倒れたのは一回や二回ではございません。何回か倒れたりなんがしたのです。それで江川君が病気になつた直接の場合には、私は当時おりませんでしたから、その間のことは知りませんが、しかし当然医者にかけたりなんだりはしたと思います。しかし病気が何であるかということは、私そのとき、若松の地区委員会の方から、病名はちよつとわからないという報告があつたのを記憶しております。
そうであります。それから病気療養には、若松にいるよりは自分の家のある実家の方がよいだろう、こういうふうに考えたわけであります。
記憶ございませんです。もう一度申し上げますが、江川君が病気になつて北海道に行くことは、病気療養のために行くことになつたのであります。けれども北海道に帰つて、そして病気がよくなれば北海道で活動するのが当然のことでありますから、そのときにはひとつよろしくやつてくれということで江川君を帰したわけであります。
二十二年の春です。