そういう事実は、ございません。
そういう事実は、ございません。
そうです。
聞違いありません。
そのとき、前の日に永山正昭から、椎野悦郎氏が会いたいと言つているから会つてくれということを言われまして、次の日午後から、何時ごろだつたか時間ははつきり記憶していないのですが、稚野氏と、——この前の証言で私名前がわからなくて、折尾の駅の売店の責任者だということを言いましたが、その人は亀山という人でございます。その人と会いまして、そこで椎野氏から、現在の党の財政は非常に苦しい。それを緩和するために現在の密輸密貿易というようなことをすることによつて党の財政を少しでも緩和することができる。それに対して協力してくれということをその場で言われたのであります。そのときは永山正昭もそこにははつきりおりました。そしてその椎野氏が帰つたあとで、これに対
昭和二十一年の夏ごろから、昭和二十三年八月、私が北海道へ来るまでの間でした。
はあ、九州におるときにからだが非常に弱かつたことは事実でございます。だが北海道へは、北海道の海上を組織するという使命をはつきり受けて行きました。
それは中央委員会に参りまして、中央委員会で紺野与次郎氏に会いまして、そうして田中松次郎氏に会いまして、そこから何か指令のような書いたものを北海道地方委員会に持つて行きました。
まず函館に連絡船をおりまして、函館の地区委員会の様子をまず見に行きました。おりたついでに……。そのときに西館氏がおりまして、西館氏に中央から持つて行つたものを渡しましたら、それを持つてすぐ地方委員会に行けというので、地方委員会に行きまして、広谷俊二にそこで会つたのです。
あります。
その後ただ顔を見たとか何とかいうことなら、回数は今のところ記憶いたしませんが、はつきりしているのは、昭和二十三年に徳田球一が九州に参りました。
昭和二十三年だつたと思います。それはちようど国鉄の若松の地区委員会の支配下にあります機関区が職場放棄を起していた最中であります。それでそのときにその闘争は行き詰まりがあつて、それで椎野氏の指示を仰ぐということから、若松地区委員会の何か書いたレポを持ちまして、私が久留米へ行きました。そのときに徳田書記長が、久留米の、あそこは医大ですか医専ですか、そこに行きまして、ちようどレントゲンをとるというときでした。そこで椎野氏に会いましたら、ちよつと学校の方へ行つててくれというので、診察が済んでから、何学校かわかりませんが、学校へ行きまして、学校で講演をしたのです。
徳田書記長がです。私が控室に行きましたら、そこに椎野氏が来まして、ちよつと待つててくれと言いました。そうしたら徳田書記長が講演を済まして控室へ帰つて来まして、そこらにいる人と握手しました。私は海員労の江川ですと言つて握手をしましたら、椎野氏が、これは永山君と一緒にやつている江川だよということをはつきりそこで言いました。そのときにまだはつきりしているのは、椎野氏が紙と鉛筆を出しまして——あの人はなかなか指令なんか自分で書かない人で、私が言うから言う通り書きなさいと言つて私に書かして持たしてやつたのです。
私に……。
若松へ……。
そのころ若松の国鉄の指導に来ていた、前に国鉄におつた人ですが、名前は今……。
いいえ、国鉄じやないのです。
はい。
そうです。向うから言葉をかけるような、まあそのころだつたら全然党員のいない所で会えば、私の方からやあ椎野さんと言えば、向うの方から、私の名前を言わなくてもおお江川君と言うくらい、はつきり知つている仲です。
とんでもない話です。私を徳田書記長に、これは永山と一緒にやつている江川ですと紹介するくらい、はつきり知つておるのです。
私が昭和二十一年、ちようど大正丸という船へ乗つていまして、それをおりるころに、何月ごろだつたかはつきりわからぬが……。