さようでございます。
さようでございます。
明治三十六年十一月十二日に生れまして、満十五才にして三井物産木材部の北海道釧路の店へ入りました。三井物産を二十才のときにやめまして、その後三井物産の木材部の東京の総代理店でありますところの長谷川萬治商店というのを、長谷川萬治氏と共同で、独立いたしまして、材木問屋をやりました。昭和五年に独立いたしまして、渡辺材木店を創立いたしました。その後ずつと木材、製材、木工の業に従事しております。途中昭和十四年から約三年間、北支方面で大体外国材の輸入を業としておりました。戦争が始まりましてから、昭和十七年に海軍より海洋いかだの業と伐木、製材、木工の起業を下命されて、南方ボルネオ、ジヤワ、セレベスの方にいて、終戦直前に帰つて参りました。その後、終戦
その後神田の聖十字学園の、先ほど委員長が理事長と申されましたが、理事長ではございません。これは聖十字学園の定款をごらんになるとよくわかります。一般でいう理事長でなく、代表権も発言権もない理事長であります。その後聖十字学園とわかれまして、現在国立に国立ホテルという旅館業をただいま営んでおります。
そうです。
日にちは確実に覚えておりませんが、まだ財団法人にならない聖十字学園の磯川氏とは、二十二年の七月と記憶しております。
私がインドネシアの方々とインドネシア会館をつくりまして、将来南方に発展する基礎を固めようと思うて仕事を始めておりましたときに、磯川氏が、自分はオランダ代表団に関係を持つものである。オランダの代表団が、渡辺がインドネシアを糾合して、何か政治的な活動をしておるのじやないかというような疑いを持つておる。であるから、そういうことは現在ジャワにおける戦況から、非常に渡辺君、君自体不利な状態になるかもしれないから、この際インドネシアとの協力はやめて、どうだ、オランダの連中と仲よくしないかというような話しかけがきつかけでございました。
ありません。直接自分で乗り込んで来ました。
さようでございます。
そのときはございません。
その後二、三回お目にかかつてからその話が出ました。
財団法人でない個人の当時ですか。
記憶しておりません。
個人で経営しておつたようです。財団法人にするときに、いろいろな人の名前を持つて参りました。
なるときの準備工作と記憶しております。
さようでございます。
自分はほとんどそれにタツチしておりません。
そうです。私が向うへ何も運動したことはありません。
はい。
行つて来るとすぐ私に、大体行つて来た話をいたします。当時一番先の動機の話は、非常に上野その他に浮浪者が多い、都がこれをどつかへ収容せなければいかぬ、何とかいい場所がないものかというようなことから、そんな必要なものであつたならば、ちよつと東京中探してみて、何かお上の財産で修理すれば収容できるようなものを探して、そうして案を立てたらどうかということを私は申し上げました。それでそんならどこか歩こうかというので、磯川さんはダツトサンを持つておられまして、その車で歩いた結果、神田の衛生試験所と、王子の方に何か昔の紡績会社の焼け跡かなんかありまして、その二つを候補にしましたけれども、一方はだめで衛生試験所の方がどうも借りられそうだ。払下げでなく
案はやはり磯川さんですが、いろいろなそれに……。