法務委員会のときもその服装です。
法務委員会のときもその服装です。
それはこちらの方の御意見をお聞きになつたら……。
それは霜降りの外套で
そうです。
沖繩へ行つた状況は、この経過をお話してその中からくみとつていただくよりしかたがないと思います。実際夜の八時に軍用機に積み込まれて、そうして二人の付添いだけで専用軍用機で外国へ行くといつて連れ出されたのです。しばらく外国へ行つてくれということで運び出されたのですが、東京湾を南へ下つて行つた。それは下の火でわかりましたけれども、私としては、外国というのを向うへ着くまで教えてくれないのですから、これはサイパンかどつかに変なものでもあるのじやないかと初めはそう思つておりました。ところが夜一時前でしたか飛行機が急にしゆろの木や何かのある海岸からそんなに離れていない飛行場に着いた。そてつがたくさんあつたと思います。夜の飛行場の明りでそれが見えた
多分同じ道で海岸の飛行場に出たのだと思います。しかしとにかく目隠しをされておるので、どれがどれになるのかよくわからないのです。そこで私が解放される日の朝立川に着いたのですから、その前の日の十二時に山を出て、二時過ぎにB一七に積み込まれた。B一七というのは非常に不細工な旧型爆撃機で印象に残つております。それに非常に動揺のはげしい飛行機でした。それで朝になつて明りの中で富士山も見えましたし、伊豆の山々も見えたので、おそらく羽田におりるのかと思つたところが、そうではなくてずつと奥地に行つて立川におりた。立川から今度は代官山に目隠しで自動車で運ばれました。
ちやんと例の、本名は知りませんが、ガルシエー氏が飛行場まで迎えに来ておつて、一緒の車で代官山へ連れて行かれました。
本名かどうか知りませんが、私に知らされたところではビル光田とジャック高橋、この二人です。
そうです。
沖繩であるということは、さつき申し上げたことのほかに、着いたときに、光田が沖縄ですよと教えてくれました。
付近に比較的大きい町があると言われておりましたし、そこのところ目隠ししてよくわかりませんが、明るくなつたり暗くなつたりしたところを見ると、町の中を通過したのではないかと思います。それが首里であるか那覇であるか私にもわからないのです。
調子は多少聞いたことがあります。私鹿児島におりまして、沖繩の友達が若干ありましたから。けれども言葉そのものはわかりません。
病気のなおりかけというやつはとかくお医者さんに値切りたい気持になるものですから、そういう意味で私は鵠沼で世話になつたお医者さんにも、さあ、十五分どうだかなと言つて首をひねつているのを、まあ直射日光に当らないようにして、少しつらいと思つたらかげんするのですねというので、十五分という限度で許されました。さつきもそのことはちよつと触れましたが、この病気は自分でかげんがわからないのでよく失敗をやるのです。それで一日くらいはどこかへその十五分の限度を少し越して出かけるということはできないことはありませんけれども、そうしたらてきめんです。翌日からもう苦しくて、今度は十五分ができなくなつて、そんなことを数回繰返せば、病状はてきめんに悪化します。こ
もう一言申し添えますが、さつき聞いておりますと、私はこの人と会つて一緒にどんどん歩いていて、病人だということは、顔色や何かで病気上りかなとわかつても、ほとんど気づかれないと言いましたが、これはまたうそを一つ暴露しているのです。この病人は、この病気でこういうふうに胸囲の狭くなつた状態で歩くのは、普通の人の倍の時間をかける速度を越すことはできないのです。それはやはり専門医に聞いていただけばわりますが、歩行訓練に百メートル二分と言われておるのです。それなのに、まだ何も訓練を自分で重ねていない状態のあのときに、健康な人と歩度を合して、しかも肺を活動させるおしやべりをしながらということは一番いけない苦しいことなんです。おしやべりをしながら歩く
それはただ出かけて帰るということは、さつき申し上げたように、一回、二回間隔を置いてできないことはありません。しかしそこで話をしながら連絡をとつて歩きまわる、これはできません。
私はむろん人に金をやるような状態では全然ありませんし、それから当時私の療養中は家を売つたり、いろいろ友達の援助によつてささえている状態で、決して余裕のある生活ではありません。私はそのことについてはキヤノンにも、とてもこんなことをされておつては生活ができないから早く帰せと言つたら、家族に金を送つてやると言つた、それを断つた事情もあるくらいなんです。
私の金をやつたと言つておるのですか。
それじやそれはでたらめです。
それはあり得ないです。
実は一番最初に話しかけて、田嶋さんにちよつとさえぎられて、そのままになつておつたのですけれども、私に対する企てというものは、米国ではずつと系統的にある計画を持つていたらしい、注目を持つていたらしいことは、前にも申し上げた通りです。あの機関のやり方は、中国の例を見ましても、あるいは解放軍が重慶近郊の基地を解放したあとの記録が、一九五一年ごろのピープルス・チヤイナーとか、新華月報とかいう雑誌に出ているのを見ましても、その基地からたくさんの学生や労働者や進歩的な人たちの死骸が出ているのです。私の考えでは奴隷にするか、でなければ証拠隠滅をはかるということがあり得るのじやないかということに過去のそういう見聞から当然結びつくわけです。それで私を