その言葉をしっかりと守ってほしいんですね。 細野大臣、二十三日に丸森町に入られてこういうふうに言っています。原発事故というとどうしても福島県に目が行ってしまうが、福島県以外でも多くの人に迷惑を掛けていることを改めて確認した、県境で政策が変わることのないようしっかりと対応していく必要がある。この思い、変わっていませんか。
その言葉をしっかりと守ってほしいんですね。 細野大臣、二十三日に丸森町に入られてこういうふうに言っています。原発事故というとどうしても福島県に目が行ってしまうが、福島県以外でも多くの人に迷惑を掛けていることを改めて確認した、県境で政策が変わることのないようしっかりと対応していく必要がある。この思い、変わっていませんか。
大きな不安はないというふうにおっしゃっていますが、ほかの県南の地区も、これ、保健便り、ちょっと持ってきました。ある小学校の、県南の小学校の保健便りです。 四月から七月二十二日現在の保健室利用状況では、内科的症状で延べ人数四百六十九名。内科的症状では、頭痛、腹痛、鼻出血、これ鼻血ですね、順に多くということ、これ結果で出ているんですね。これ、県南でもやっぱりこういう症状が出ると心配になるんですよ。それにどういうふうに、本当に不安はないと言えますか。
細野大臣、基礎自治体からはちゃんと要望が出ているんですよ。その要望を待っているというんだったら、じゃ、ちゃんと要望が出ればしっかりやるんですね。
じゃ、十八歳未満の子供たちに、学校の校医、又は定期健診で検査を行ってほしいという要望がまとまって出てきたらしっかりと対応していただけるんですね、文科大臣。
厚労大臣はいかがですか。
あのね、データ、数値、数、これはいいんですよ。安心なんですよ、皆欲しいのは。それを拭うのはこの政治不信のある政府の中ではなかなか難しいから、しっかり対応しろということを私は言っているんですよ。それはちゃんとできますか、細野大臣。
以上です。ありがとうございます。
自由民主党の熊谷大です。 十二月に入り、東日本大震災からもうそろそろ九か月がたとうとしております。地元ではあの日と同じように雪が舞い散り始めました。当時、雪がまだまだ降る状況、道路状況も悪いにもかかわらず全国から支援に来てくださった方々、とても助かったなと今振り返っても思います。 今言ったように、今回、道路の役割というのが非常に大きく出てきたなと。よく郊外に行けば命の道であるというスローガンが掲げられております。道路整備の大切さの理解がこの大震災をきっかけに浸透したなと、まさに命の道の結果になったなというふうに思います。 被災直後、東北整備局は、くしの歯作戦を展開して、南北をつなぐ道路が寸断されたために、沿岸部を助けるた
その、今大臣もおっしゃったような功績を上げた整備局を野田総理は広域連合に移譲をしようという発言があったりして、それはやっぱり地元の気持ち、又は大きな仕事をしていただいた方々の感情を考えていくといかがかなというふうに思っております。 地方公共団体が機能不全に陥ったときに、テックフォースを始めポンプ車も配置又は配車していただきました。各地の整備局の仕事を正当に評価していただきたいというふうに思っておりますし、東北の東西をつなぐ道路、例えば山形—宮城間の百十三号線であるとか、福島—山形県を結ぶ三百九十九号線、又は秋田—岩手間といった国道や橋梁の整備、これも補助もしっかり含めて行っていただきたいなというふうに思っております。 さらに
次の質問に移らせていただきたいと思います。 先ほどもありましたが、復興のスピードが非常に遅いなというふうに思っております。さらに、そのスピードの遅さに輪を掛けて、政府・政権与党の姿勢が非常になかなか被災地から受け入れられるような態度ではないなというふうに思っております。 ちょっと振り返ってみたいと思うんですが、六月二十七日、月曜日なんですけれども、この日に宮城県議会、市長会、議長会そして町村議会議長会、総勢百名近く宮城県から陳情団又は要望団がやってまいりました。総理、当時は菅前総理でしたが、総理始め各大臣に出席そして要望して、当時被災県である宮城県がどのような状況であるか、とにかくヒアリング、聞いてもらおうということでやって
その割れた地域、住民の合意を形成していく、それは本当にそのとおりだと思うんですけれども、やっぱりそれでも漏れてしまう人もいる。やっぱり選択的なその移転というものをしっかりと担保していただくようにしていただきたい。 というのは、災害危険区域に指定される前に、先行きの見通しが、やっぱり復興策がなかなか出てこなかったものですから、リフォームをして、自分で修繕をしてもうそこに住んでいる人たち、例えば仙台市でも石巻市でも非常に多い今数になっております。それはどういうことを意味するかというと、自治体の方々にとっても、非常に苦労されます、話合いをしていくことに苦労しています。例えば、自治体でも、建物の移転補償費、これ出せるのか出せないのか、こ
本当に非常にこれ重要になってきます。もう九か月たっています。九か月たったということのその責任の重さ、いわゆる時間の経過というのが人心を離してしまった、そして政治不信の種をかなり強く植えてしまったということを是非自覚していただいて、真摯に被災地そして被災者に寄り添って、向かっていただきたいというふうに思っております。 次、ちょっと文科大臣にお聞きしたいんですけれども、こうして悩み多い地域でありますが、復興特区には皆本当に期待しているところが大でございます。二十一世紀のモデルという文言は復興構想会議でも復興に当たっての原則としてありました。その中で、東北の復興、知の拠点形成プロジェクトという、東日本大震災復興科学技術基金の設置、つま
中川大臣、済みません、今、藻類のバイオマスエネルギーにだけ言及してしまいましたが、リニアコライダーというものの研究もあるし、東北メディカルバンクという、いわゆる被災地、沿岸部で非常に高齢化も進んで、医師不足また無医村が多いところでした。この東北メディカルバンク等々に懸ける思い、又は、福島だけではなく宮城県の県南も、放射性物質の風評被害を始め、実害につながってくるかもしれないというおそれが非常に、非常に高くある、深くあるということをちょっと認識していただいて、是非その研究又はメディカル研究の拠点についても積極的な答弁をよろしくお願いします。
是非とも継続的な研究費の積み上げ、そして予算計上をよろしくお願いしたいというふうに最後はお願いを申し上げさせていただきまして、私からの質問を終わります。 ありがとうございました。
自民党の熊谷大でございます。参考人の皆様には大変お忙しい中、興味深い御意見の数々をお聞かせいただきまして誠にありがとうございます。 時間も少ないので、早速質疑をさせていただきます。 今回の法改正に伴って、ハード面とソフト面、両面同時に並行して充実させていくことが望ましいだろうというふうに考えております。特に、刑罰主義から、先ほどもありましたが、治療や教育といった立ち直り、更生に視点を傾注するならば、なお一層のことその両面の充実が必要であるというふうに考えております。 そこで、社会貢献活動について藤本哲也参考人にお聞きしたいというふうに思っております。 今回の改正案の中で、社会貢献活動を保護観察期間に設けるということで
次、続きなんですけれども、藤本参考人と、あと近藤参考人にもちょっとお尋ねしたいんですけれども、こうした事案を犯す人々には社会貢献活動に参加して、午前中にも議論があったと思うんですけれども、様々な意識を涵養していくというふうなこともあって、先ほど藤本参考人もおっしゃったように、清掃活動又はごみ拾いで期待されるような自己有用感又は自己肯定感が満たされるだろうというような期待があるんですけれども、果たして本当にそれがそうした活動で満たされるのかなということが疑問としてあります。そういったものの科学的なデータがあれば教えてほしいというのと、また、介護活動、福祉施設で介助作業を手伝うというふうにもあるんですけれども、これも、介護福祉士というの
近藤参考人にもお願いします。
最後に、社会と人とのかかわり合いという点で、その取っかかりとなる保護司さんについて、山下参考人、藤本参考人も保護司の負担も多くなるだろうということで言及されていたのでちょっと質問したかったんですけれども、時間がもう来てしまったので、私の質疑はこれで終了させていただきます。 ありがとうございました。
自由民主党の熊谷大です。 冒頭、まず、この場をお借りして、今般の三・一一東日本大震災で全国の皆様から御支援をいただいていること、とても感謝いたしていますことを表明させていただきたいと思います。今後とも、北海道から千葉県にかけて長い距離の被災であることから、長い年月の御支援と御協力が必要になってくると予想されますので、どうぞ温かい御支援をお願いいたしたいというふうに思っております。 そして、最近、少々事実と反することが巷間耳にされることがありますので、ちょっとこの場をお借りしてですが、それも指摘させていただきたいというふうに思っております。 それは、被災地は今、大バブルだというふうに言われることでございます。私は仙台市内に
今の御答弁の中で、その内容は大体分かるんですけれども、その期間についてどれくらい要するかということがちょっと抜けていたというふうに思っておりますが、先ほど那谷屋委員からの質問にもあって、大臣、答弁されていましたが、できるだけ長期ということで、ちょっと曖昧な形で言葉を濁されているのが非常に気になったんですけれども。 阪神・淡路大震災では被災者が自身の心の問題に気が付かなかった。で、後に出てきたというふうなこともございまして、平成それこそ八年から二年後の平成十年がピークでございまして、四千百六名の方がそこで受診をされたりしております。それからだんだん減ってきまして、平成二十年に百六十九名というふうになっておりますので、大体おおむね十