私もそのように心得ます。先ほども先生おっしゃいましたけれども、決して水俣病は終わったわけではございませんし、病気の本質的なものからいいましても、これから先、予期しない形で、これが新たな形で発覚するということもあり得ると思います。そういう意味で、いわゆる不全性の病像あるいは非顕性の病像というものもできるだけ追求し、基準の中に取り入れていくべきだと思っております。
私もそのように心得ます。先ほども先生おっしゃいましたけれども、決して水俣病は終わったわけではございませんし、病気の本質的なものからいいましても、これから先、予期しない形で、これが新たな形で発覚するということもあり得ると思います。そういう意味で、いわゆる不全性の病像あるいは非顕性の病像というものもできるだけ追求し、基準の中に取り入れていくべきだと思っております。
週刊誌にはそのようなことを言っておりません。週刊誌は、人の言ったことをそのまま書けばあんなに売れないでしょうが、どうも正確なコメントを正確に伝えない節がございまして、これは押し問答になりますから、否定するだけでこれ以上申しません。 私は、物事はすべて物書きのころから現場主義でございまして、この問題をこうやって論ずる前に、実は自分自身の目で見、耳で確かめたいと思います。そしてまた、私の非常に信頼できるチームの一人として調査を依頼しましたのも、声なき声と申しましょうか、お役所を通じてできないような事項について調査を依頼しておりますし、それをすべて振りかざして云々するつもりはございませんが、そういう報告も待った上で私自身が四月に行って
この問題も大変厄介でございまして、松に忠ならんと欲せば虫の方に孝ならずで、私も大変考えました。私、何の報告も知識もないままに閣議で決定されそうになりましたので、これはストップをかけまして、同時に、その時点で、自然保護審議会の有力な委員の方々から空中散布は困るという陳情も受けまして、本来この管轄は林野庁でございますので向こうへ御紹介いたしまして、その方々の意見も十分聴取していただきまして、かつまた、その陳情の趣旨を踏まえて、環境庁からこの法律に対する条件を幾つかっけた次第でございます。もうそれは御存じと思いますけれども、何なら政府委員の方から説明させますが、それを加えたことでその陳情の方々も、ある問題については御了解もいただけましたし
これは非常に厄介な問題でして、同じ自然保護ということの中で、松をとるか虫をとるかという、つまり、その価値の優先順位をだれが決めるかということなんですね。こういう民主主義の体制の中では、まず地方公共団体の首長が、うちの県はとにかく抜本的に空中散布をするという要請があって、これはもう保守、革新を問わず、そういう地方公共団体の首長の言い分というのは、空中散布をやってくれということでございます。ただ、それだけで力を得て国が一律にバッとやってしまえば、同じ一つの県なら県の中でもいろいろ条件が違うと思いますので、そういう意味で、抜本的には空中散布をするが、さらに県の中の小さな地域地域の中で、できるだけその地域の住民の方々の意見をしんしゃくすると
先ほど局長が、お答えいたしました五つの条項の中の第三の「実施に当たっては、十分に地域住民に説明し、」のこの「地域住民」は、地方公共団体の首長ではなしに、もっと細分化された地域の住民という意味で申し入れてございます。
どうも基本的にその時期でないという認識のようでございます。私、よけいなことを言うかもしれませんけれども、やはり日本の行政の中で、社会、文明全体が転換期に来ているときに、役所の発想も変わらなければいかぬと思いますが、その一番ティピカルな在来の行政の中の価値観と新しい行政の価値観が、環境庁と通産省という新旧両代表と申しましょうか、そういうところで非常に鋭角的にぶつかっているような感じがいたしますが、単に環境行政だけではなしに通産行政も含めて、通産省というものはこれから日本にとっても欠くべからざる役所だと思いますけれども、それでもなお通産行政の発想の転換をすべき時期に来ていると思いますし、その問題の転機として通産省にも受けとめてもらいます
私は、本来なら、せっかくこういう法律ができますので、そのイエス、ノーの権限というものは環境庁長官が持つにこしたことはないと思いますけれども、いまの行政の体系の中では、まず非常に強烈な抵抗があって不可能でございましょう。他省から言えば僭越であるということで片づけられそうでございますが、同時に、尊重するという一項が入っておりますので、環境庁として意見を出し、どうも好ましくないというような判断をした場合に、これをまた他省が無視をするわけにもいくまいという期待でこの問題を考えているというふうに御判断願えれば結構だと思います。
そのつもりでやっております。
核問題についての私の発言は、どうも正しく判読されていない節がございまして、この機会、結構な機会でございますからはっきり申し上げますけれども、私は核保有論者ではございません。国会の質疑の議事録を見ていただきましても、はっきりと、利害損得換算しても、現況日本は核を持つべきでないと思うということを申しておるはずでございます。 また、非核三原則の問題でも、この間、福田総理から予算委員会で答弁いただきましたが、余り個人の立場で物を申すべきでないと思いますけれども、この問題につきましても、やはり時間の推移、国際情勢の変化等、いわゆる政治の係数が変化した現況では、私は閣僚としましても、内閣の非核三原則の姿勢というものを遵守するつもりでございま
その発言は、非核三原則が議会で決議される前でございます。それがしきりに論議されたときでございまして、私は、一議員として、個人の立場でそのような発言をいたしました。その後、国会で決議されまして、先ほど申しました情勢の変化等々ございまして、私いま、もちろん国会議員はすべて公人でございますが、公人中の公人と申しましょうか、閣僚の立場ではその問題は私の管轄外のことでございますので、私の所見を述べる立場ではないと思いますが、しかし閣僚の一員として、非核三原則に関する内閣の姿勢を遵守するつもりでございます。
私の著書に言及いただいて大変光栄でございますけれども、私はそうは思いませんし、コンテクストのつながりというものがございまして、文章の一部だけ取り上げられますと違った印象が拡大されるおそれがございますが、私、それはだれとの対談でしたか、ちょっと失念いたしましたけれども、核問題に対する日本人のアレルギーと申しましょうか、考えること自体を拒否するような体質というものに言及したときに、そういう表現をしたと思います。これはそれだけとらえますと、どうも表現として大変稚拙だと思いまして、特に今日、私の立場がこうなりましたときに、大変誤解を招きやすい表現と思いますので、これは深く反省させていただきます。 ただ、私は、原爆の患者、原爆の被爆者、こ
そのとおりでございます。
公開というのは、いままでの慣例で申しますと、実質的に新聞記者の立ち会いでございましたが、いろいろな陳情を私、受けますけれども、新聞記者が立ち会う公開の形では本当のことが言いにくい、ぜひ非公開にしてほしい、あるいは公開にせざるを得ないような庁舎ではなしにほかの場所で話を聞いてほしいという陳情がたくさんございました。私は、そういう体験を踏まえまして、やはり率直に意見を伺うことが私の公務を能率的に、積極的に行っていくゆえんと思いますので、陳情にいらっしゃる方々が、新聞記者立ち会いの形で陳情を公開してもよろしいというときには、私は喜んで公開させていただきます。ただ、これはやはり陳情をされる方々それぞれの問題を持っていらっしゃるわけでございま
確かに環境庁は、住民運動というものを基軸にする公害問題の取り組みによって新しい歴史をつくり、国民大衆の意識変革に非常に強く寄与してきたことは、私、認めます。しかし、お言葉を返すようでございますけれども、住民運動の方々の中に、公開をしてもらっては困る、要するに非公式にと申しましょうか、公開されない立場で自分たちの意見を聞いてくださいという方々が非常に多うございます。そうして、そういう方々にそういう形で、私は、結局役所を使いませんものですから、ほかの場所で何度か会いました。
これは言葉の行き違いでございまして、それをお認めいただけるなら、別に原則は原則で例外もあることでございますから、記者の諸兄が納得してくださるならば、原則は公開、しかも、あくまでも公開、非公開については陳情者側の意思をそんたくするということでも結構でございます。いずれにしても、あの庁舎の中で行われる陳情はすべて公開にしろという要求には応じかねるということでございます。
言葉の行き違いがあると思いますけれども、それではこういうふうにいたします。 環境庁で行われる陳情は一切公開せよという鉄則はやめさせていただきまして、原則的には公開しますけれども、あくまでも陳情者の公開、非公開の意思をそんたくするという形にさせていただくというのではいかがでございましょう。
そのとおりでございます。
結構です。
住民あるいはその公害被害者の方々の実態を私が拝見するというのは、私が自分で視察に行くべきだと思います。陳情という形でおいでになる限り、冷静な説明をいただき、冷静な質疑応答のできるためのおのずと数なり質なりの制限があると思いますので、その点は、いま東中先生がおっしゃっていただきましたように、喧騒のちまたで一時間いたずらに空費するような、そういうような体裁をとらない形でのルールというものを互いにつくって、できるだけ効率よく時間を生かすようなルールというものを互いに守り合うという習慣をつけたいものだと思います。 ちなみに、先週起こりました騒動の中では、一体この方がどこのどなたかさっぱりわからず、何の目的で来られたかも私よくわからず、事
水俣でございますとか四日市でございますとか、そういう非常にラジカルな個々のケースをとりますと、これは企業なり行政なりというものに、過半といいましょうかほとんどの責任があるという事例もたくさんございますが、しかし同時に、総体的に、特にジャーナリズムにあらわれてくる公害の扱い方と申しましょうか、一つのこれに対する物の考え方の流れ方というものをとらえますと、被害当事者でない大衆の中に、実は自分自身も公害を生んだ、非常にゆがんだ、あしき形の文明の加担者であり、そういった形の文明の一つのある意味でのメリットいうものを享受していながら、それを忘れて問題を一方的に責任転嫁し、声高にそれをののしるだけで、歴史的な反省の見られない風潮があるという意味