いや、あなたの言うことはよくわかるんですけれども、それは過去の忌まわしい出来事について語るということはお互いに気持ちのいいことではありませんが、あの場合、永野さんがあの発言をしたということ、発言そのもの、つまり過去の事件に触れたということがやはり思わしくないんだ、それともあの発言が非常に誤解を受けやすかったという部分があるということ、その軽率さなんでしょうか。
いや、あなたの言うことはよくわかるんですけれども、それは過去の忌まわしい出来事について語るということはお互いに気持ちのいいことではありませんが、あの場合、永野さんがあの発言をしたということ、発言そのもの、つまり過去の事件に触れたということがやはり思わしくないんだ、それともあの発言が非常に誤解を受けやすかったという部分があるということ、その軽率さなんでしょうか。
あの事件を報道した各紙の書き方の中で、皮肉なことに、朝日だけが、いわゆる括弧南京大虐殺事件か、あるいは、いわゆる括弧南京事件という報道をしておりました。つまり、いわゆるという言葉書きがついていた。これは非常にサジェスチブ、暗示的で、大事な表現なんですよ。 私は、政治というのは、往々それぞれの利益のためにかなり乱暴なことをするし、野蛮なことをするし、非文化的なことをする、それが政治のある意味でのあしき本質かもしれないけれども、その中でも一番許せないことは、歴史というものを改ざんすることなんです。歴史というのは人間全体のとにかく財産ですから、それを政治の一つの意図というもののために改ざんするということは、私は絶対に許されないと思いま
大変結構な見識だと思います。 そうすると、恐らく、これは類推かもしれませんが、要らざることを言ったというか、過去の最も忌まわしい歴史の事実について舌足らずの発言をしたとか、あるいはなりたての法務大臣が言わなくてもいい問題に触れたとか、いろいろ見方があるでしょうが、しかし、南京事件というのは私はあったと思います。あそこで多くの非戦闘員を日本軍が殺したということは事実だと思います。私はそれに対して、あの戦争が聖戦だったとか植民地解放のゆえにそんなものが許されてしかるべき、そんなばかなことを全然言うつもりはありません。 しかし、いろんな性格づけはあるでしょうけれども、非戦闘員を軍隊が殺すということは非常に残虐なことだし、同時に、言
ちょっと委員長。 いろいろ書き方が違っていたら、どういうふうに違っているか、ちょっと教えてください。
ありがとうございました。 今三っ事例をお挙げになりましたが、その中にも、数字が書いてあるもの書いてないもの、それからまた、教科書は何も教科書ゆえにすべて事実を、史実を正確に数字を含めて記述しているとも思えない節がほかでも多々ありますが、いずれにしろ、例えば借行社のように、かつての陸軍の有志たちがつくっている組織がこの問題を非常に重要なものととらえて詳しい調査をしている。その中には日本にしかない資料もあります、それを含めて。それから同時に、何人かの生存しているあのとき南京にいた外国人のジャーナリストにも日本の新聞記者がインタビューをして、その人たちの証言もある。 例えば、もう亡くなったかもしれませんけれども、二、三年前に、九十
あなたの言うことはわかりますよ。ですけれども、いろいろ説があるという認識をお持ちだということは大事なことで、今両国の政府がこの問題について公式に話し合う時期ではないと言うが、私ちょっと後で違う提案をしますが、私はその時期だと思うんだ、まさに。 私が何で数字にこだわるかというと、この間「新潮45」という雑誌にも曾野綾子さんという冷静な日本の知性が、つまり、こういう問題の数というものは非常に大事なんだということを書いていた。もし必要だったら後でお送りしますけれども。 それは、東京裁判でもこの問題が問題になっている、この点が。松井石根という、この責任をとらされて結局処刑された大将は、三十万なんという人間をわずか六週間で殺すには国家
私は、過去にこの問題でちょっと巻き込まれかかったことがある。それは、私がある本を、かなりプロボカティブなものにアメリカに映ったんでしょうけれども書きまして、それに関する集中インタビューで、アメリカ版の「プレイボーイ」という、日本はどんな雑誌かよく知らぬけれども、アメリカの「プレイボーイ」というのはなかなかソフィスティケーテッドないい雑誌ですけれども、そこでシェフというかなりすぐれたライターにインタビューを受けて、いろいろな話をしたついでにこの問題について問われたのです。 私はそのとき、数字のことをたしか言ったはずだけれども、いずれにしろそれはフェイクだと私は言ったのです。それがよく伝わらなかったのは、その数字の部分が外れて出たた
それはおかしな話で、やっぱり国民を代表している政府ならば、その政府が、あなたの気持ちはわかる、言うことはわかると言うんだったら、つまり問題の把握を正確にし切れていない大衆というものが、大衆同士のつき合いだってあるんだから、日本の国民、中国の、シナの国民、その国民たちが政府を離れてでも、民間ベースのつき合いの中でも、誤解がないように、国民に対するそれぞれの啓蒙のために科学的な、歴史だって一種の科学なんだよ、科学的な手を尽くしてこの問題を検証しようと。そこで、例えば日本人は三十万ないし四十万殺して、とにかく事実がはっきり出てきたら、それは私たちのまざるを得ない。 しかし、そういう歴史、科学としての歴史の考証、検証を経ていないこの事実
おっしゃることは大変いいんですよ。ですから、今おっしゃったあなたの結論に近づいていくためにも、ここまで来たんだったら、今そういうものを冷静にあなたが提案されたら、私は、むしろ拒否する中国の方が後ろめたくなって、それじゃとにかく調べ直しましょうという合意を得ると思いますけれどもね。それはあなた、やはり日本人に対する責任と同時に、中国の人に対する責任であり、アジアに対する責任ですよ。 私は何も、あそこで日本が悪いことしていないなんて一言も言っていない。ただ、民族の資質を問われかねない三十万というジェノサイドを、当時人口はどうも二十万しかいなかったみたいだけれども、だから、これがこのごろつじつまが合わなくなった。何人かわからない日本人
こういうのを柳に風というんだな。 とにかく歴史の改ざんだけは、目を背けて許すことだけはしますまいよ。それはやはり民族の一人としての責任であるし、ましてや高い地位にいる政治家としての責任だと私は思います。 この問題については、どうも何かそういうやりとりで切りなく進行しそうなので、一応私の、多分これは国民の声を代表したお願いとして繰り返して、終わります。 次に、このごろだんだん度合いが濃くなってきた言葉狩りについて、ちょっと総理の見解をお聞きしたい。 差別用語というのがありますね。差別用語というのは、一体どういうものをもって差別用語と認識されておりますか。
その、言葉によって相手を傷つけるということは、確かに差別用語の一つの本質ですけれども、だから、どういうことで相手を傷つけることになるんでしょう。
例えば、私この前、細川君のときにやったら、あのときは社会党も向こうにいらしたので、きょうはそのやじが聞こえませんが、メンバーもかわったのか同じだか知らないけれども、私は中国のことをシナと言うんです。どうしていけないんですかね。シナと言うなという声が聞こえたから。私にとって中国地方というと、岡山県とか山口県とか広島県ぐらいのことだと思ったんだけれども、日本だって、日本は日本、日の本と言ったって、外国人は、日本を日本と言わないですよ。やはり漢字も読めないからジャパンと言いますよね。 何で日本人がシナ人のことをシナ人とかシナのことをシナと言って嫌なんだと言ったら、揚さんという前の大使がこう言ったな。漢字がよくない、漢字。漢字の当て字が
大変あなたの勇気ある発言に感謝いたしますけれども、白痴と言っちゃいけないの。それではドストエフスキーの作品これから訳すときどうやって訳すのですか。イディオット、イディオッタ、韓国語もシナ語も全部日本と同じ漢字書いていますよ。それから、英語だってフランス語だってみんなそうですよ。日本だけ、ドストエフスキーの、人間の財産として要するにオーソライズされているあの傑作の小説を新版で翻訳して出すときに、何てつけるんだろうね。本当に困っているらしい、みんな。 こういうばかな現象を私は非常に野蛮で非文化的だと思いますけれども、図書館のスタッフでもいらしたし、文化を一応担当している、本当は内閣全体の問題だけれども、文部大臣、いかがお考えですか。
そんなこと聞いているんじゃないのよ。あなた、いつもあなたの答弁を聞いていると模範少女みたいでだめなんだ。要するに、こういうわけのわからぬ不必要な言葉狩り、これは非常に野蛮でまた非文化的だし、ドストエフスキーの「白痴」という小説を「白痴」として出版しにくいみたいな、この時代の混乱というのをどうお思いですかと聞いているのです。好ましいですか、好ましくない、仕方がない……。
全然だめ、非常に非文化的な答弁で。 それじゃ、文化人の代表らしい柿澤さん、あなたどう思う、外国通の。
芸者さんの手踊りに有名なレパートリーがあったのですけれども、このごろそれはさすがにやらなくなっちゃった。それは三人かたわというのですよ。それは見ているとコミックだけれども、やっぱりあれは不自由な人が見たらちっともいい気しないと思う。目の悪い人は見えませんから、もちろん。ですからこれは自粛されて当たり前だと思いますけれども、ドストエフスキーは自分の「白痴」という、ロシア語でも白痴と書いてあるんだけれども、それが違う題で、頭の悪い人というのかな、頭にハンディのある人、何か知らぬけれども、そんな訳で出されたらどう思うだろうね、これ。これはドストエフスキーだって私は被害者だと思うのですよ。 それで、このごろはひどくなって、塗装業のことを
あなたがおっしゃるように、こういう文化の問題に余り行政が、要するに開放なり規制なりそういう形で踏み込んでくるのは私はいいことじゃないと思いますけれども、ただ、やはり政府は政府で文化に対する責任を、マルチな配慮というのをしなくちゃいけない。その文化の、まあ言ってみれば一つの大きな要因である言語というものがこういう形で不必要な制約をされ、非常に混乱し、また危険な傾向にあるということをやはり閣僚の皆さんにも認識していただきたい。 だから私は、あなた方が役人に向かって、おれは絶対めくら判つかぬぞと、別にそこで強いてそういう表現をしていただかなくて結構だけれども、おれをつんぼ桟敷に置くなよと、そういう表現されなくても結構だけれども、ただ、
いや、配るというか、ちょっと総理に見ていただきたい。
それは、このごろユーザー車検とか何とか車検というのができてきまして、そこで出た、要するに車検は通ったけれども、今の限りでは通しますが、このブレーキはもうあと一、二カ月しかもちませんよ、二百キロ走ったら摩滅して事故を起こしますよと言うんだけれども、車検を通っちゃったら、次の二年間やっぱり大丈夫だろう、お上が、とにかく国家が資格をつけてくれた、クオリファイしてくれたのだから大丈夫だというのが大体国民の、まあ一般的な感じですよ。それで、その人はその後事故を起こした。そして、三百万払わざるを得なかった。 私は、いいんですよ。確かに今の整備工場がリーズナブルな仕事をしているとは思えない節が多々ある。余計なことをやって車検通すためにべらぼう
わかりました。 終わります。