今、猪熊先生はそういうふうに聞くのが当然だという、その当然であるとすれば、私は当然の域にまで至っていなかったということを言わざるを得ないと思うんです。決して非礼な言葉だと思って言っているわけじゃございません。正真正銘私が具体的なことを問いただす環境にはなかったというふうに御理解をいただきたいと思います。
今、猪熊先生はそういうふうに聞くのが当然だという、その当然であるとすれば、私は当然の域にまで至っていなかったということを言わざるを得ないと思うんです。決して非礼な言葉だと思って言っているわけじゃございません。正真正銘私が具体的なことを問いただす環境にはなかったというふうに御理解をいただきたいと思います。
私の渡邊さんに対する認識は、これは先生と異にするかもしれません。いわば当時は善意の第三者であったというふうに私は思います。そして、私はどなた様のお話でも会社の再建というと、それほど再建能力があるわけでは私にございませんけれども、それは与野党を問わず丁寧に話を聞いて丁寧にお答えするという習性を私は持っておりますし、この男はだれとつき合っているからけしからぬというようなところまでもこれは思いが及ばなかったというふうに御理解をいただきたいと思います。
先ほど来、いわゆる暴力団対策法による暴力団の定義とかというようなことも申しましたが、その定義以前の問題として、私はこれに対する民主主義の基盤からして全く意を同 じくするものでございます。そういう姿勢で臨むべきであるということに対しては何ら異論を挟むものではございません。
その中尾君の、中尾さんのことに対しては正確に私の記憶にございません。が、なかったと否定するわけではございません。
今、対策メンバー、それと金丸証言は、余り関心がなかった、すると金丸先生をあなたもメンバーだったという言い方は私にはできないかと思います。それから、経費の支払いは金丸事務所とおっしゃいましたが、竹下事務所であった可能性があるということを申しておるわけでございます。 それから、いわゆる褒め殺し問題というのが、私は、何か握られておびえておるから総裁選挙に不利だということならば総裁選挙に立候補していないと思うのであります。したがって、あの五日に私は緊急要務として皇民党対策というのを議論する立場、環境にはなかったというお答えをせざるを得ないと思います。
先ほど来申しておりますが、渡邊さんとそれまでの間、おまえ、おれというつき合いにはございませんでした。したがって、その前に会ったことがあるといたしましても、そんな席でお話しするようなことは初めてのような印象が私にはあります。それだけに、向こうさんにもありますので、大変な丁寧な言葉でこのお話があったということだけは私覚えておりますが、そのいわば人の道として、田中先生のところへ、それも総裁選挙立候補のごあいさつにいらしたらというような言葉であったことだけは覚えておりますが、具体的な一問一答とかそういうものは私は覚えておりません。
先ほどもお話しいたしましたが、確かに私の間違いです。私が総理大臣になってからは総理官邸が予定表を管理します、そして幹事長であったときは幹事長室が管理いたしますが、私の事務所とどっちかといえば管理責任の所在が明瞭にない点がございますが、二十九日はそれ以上に新聞各社の私の動静、総裁予定者でございましたからもう既に出ておりました。にもかかわらず私が日にちを間違えて、そんなに、党大会の前日そんなことがあるわけないじゃないかと言ったことが間違いであった。元来慎重な私、慎重というのは私自身が思っていることでございますけれども、思っている私の間違いであったということでございますから、これは弁解の余地はございません。
あの証言は信憑性を認識していただけるという前提で私は証言を申し上げております。
その結成の際という限定でございますが、私は今調査しておりませんけども、恐らくないだろうと思います。
先ほど申しました、七十二カ月にわたって関係団体から一万円ずつの献金がありますのが、その時期にそういう表現であるものがあったとしたら、うそをついたことになると思いますので、慎重にお答えしたわけでございます。
ございません。
上田先生と久しぶりにやり合うわけでございますが、やり合うという気持ちは全くございませんから、きょうは。 今おっしゃいましたことでございますが、六十八歳が子供であるかどうかは別といたしまして、私は金丸さんの人生観の中に、要するに、人は困ったとき助けてくれた者にはどなたであれお礼を申し上げるべきだと、困ったとき相談を受けたときはどなたであれ相談に応ずべきだというような、人生観の例えとしては私も聞いたことあります、このおぼれた子供の話を。が、どんずばり私がそのとき橋の上から落ちた、おぽれんとしておる子供であるという認識での証言ではないじゃないかと、推察することは失礼でございますけれども、私は思っております。
全く出ておりません。
実際、今難しい質問、尋問でございまして、記憶にないという言葉が議院証言法が昭和二十二年の十二月できまして以来クローズアップしましたのは、このロッキード事件のときにクローズアップして、記憶にないというのは、その事実があったこともなかったことも含めてあるのかないのかという議論を何回もしたことがございますので、適当な言葉であるかどうか私も疑問に思いますが、この間は、覚えてないということは記憶にないということかというようなお尋ねでありましたので、記憶にないという言葉を、イメージとしては余り使いたくない言葉でございますが、使ったわけでございます。 したがって、今の、上田さんと私が、記憶にないとは何ぞやという問題を尋問者と証言、証人という立
私が決断をしましたのは、長谷川信先輩のお電話でございます。
三日にそうしたことは記憶に、これこそ記憶にございません。が、読売新聞のスクープだとかいうような評価がありましたが、そのいわゆるニュースペーパーの記事に対して論評を加える立場には今日はないというふうに思います。 ただ、異常ではないかとおっしゃいましたが、あのとき立候補したその日でございまして、夜遅くまでたくさんの人がうちへ来ておりました。そして、六日の九時に中曽根先生にごあいさつするというアポイントは既にとれておったわけです。したがって、その後あちこちへ出かけますから、少し先になり過ぎるなという懸念があったんです。そうしたら、あした八時ということを長谷川先輩からお電話いただいて、よし、前後するけども、同じ日に行けばまあ私の心の中に
かぶせると、この考えはないということだけは、あえてお許しを得て申し上げたかったわけであります。
青木君とは、私は、昭和三十年以来五十一年までは公設秘書として、あるいは官房長官、二度にわたる官房長官、建設大臣の秘書官として私を助けてくれました。その後は公設秘書ではなく、竹下事務所の総括責任者として私を助けてくれました。したがって、私はすべての責任を青木君に転嫁しようなどということは毛頭考えておりません。なかんずく今、亡き彼でございますだけに、それはより慎まなきゃならぬことだと思っております。 ただ、青木君が、私が申し上げたいのは、私の生きざまをそれこそよく知っておったと思います。したがって、私が重ねて申しますように、言論の自由に対してはいかなる批判に対しても体制側に立つ者は耐えていかなければならぬと、それを何回もこの言ってお
これは池田先生も国会のことはよく御存じであるということは私も承知しております。
いや、今まで高橋英吉先生の関係もよく存じております。お久しぶりですと言いたい気持ちでございますが、先生、そこのところは、ことほどさように青木君を私が信頼しておったわけでございますから、そのように御理解をいただきたいものだと思います。