ただいま説明員から申し上げましたように、制度の上から申しましても、また財源措置がとられておるというところから申しましても、国の立場からする見解はきわめて明瞭であると思います。それがあえてそうなりましたゆえんのものは、先刻も触れましたように、日教組という団体のいわば利害、打算に基づくところの反対行動の結果が実力的にさような影響を与えてきておる、そういう事柄だと理解しております。
ただいま説明員から申し上げましたように、制度の上から申しましても、また財源措置がとられておるというところから申しましても、国の立場からする見解はきわめて明瞭であると思います。それがあえてそうなりましたゆえんのものは、先刻も触れましたように、日教組という団体のいわば利害、打算に基づくところの反対行動の結果が実力的にさような影響を与えてきておる、そういう事柄だと理解しております。
説明員からお答えを申し上げます。
昭和三十五年の八月早々であったと記憶しますが、日教組の委員長名をもって中央交渉と名づける団体交渉を再開することを要求するという要求書をもらいました。それに対してノーと答えまして以来、その後二回ほど同じような趣旨の要求がきましたけれども、断わりました。それは、日本の地方分権をたてまえとします小中校の教育制度、そのことからいたしまして——申し上げるまでもなく、地方公務員法に職員団体がつくれることが明記されておることは当然といたしまして、日教組という全国組織の団体が合法的に存在しておることは、むろん否定するものではございません。ですけれども、中央交渉という名前いかんにかかわらず、従来やっておるあの交渉を再開することを要求するといわれまして
お答え申し上げます。 教育制度あるいはそれに関する法律制度をくずしたくないということよりも、法律違反は犯したくないということであります。ただ当時も言われたことでございますが、それは法律制度論としてはそうであろうけれども、現によかれあしかれ日教組という団体があるじゃないか、五十万の団結を誇っておる。デモクラシーとは話し合いからだというじゃないか、事実問題として理屈抜きに話し合ったらどうだという説は、新聞記者諸君からもしょっちゅう出された質問でもあり、お説でもありました。それに付して、私は、それでもノーと答えたいということでまいっておるのであります。 その意味は、毎度申し上げておることですけれども、日教組の、たしか昭和二十六年の
いま御指摘のような具体的事例も、新聞記事で私も承知しないわけではございません。そのこと自体、これこそ事実問題でございますから、それぞれの立場において会ったほうがいいと思って会われたのであろう、こう想像するだけでございます。 私の場合は、教育の責任者として、憲法はもちろんのこと、先ほど申し上げました教育基本法第十条の趣旨には厳粛に従っていくことが私の職責である、とかように考えまして、私としてはノーと答えた、そういうことであります。
昭和三十五年の九月だったと記憶しますが、日教組はILOに提訴をいたしました。事柄は多岐にわたっておるようでございますが、主たる提訴の案件は五つであったかと記憶いたします。 第一は、日本の文部大臣が日教組に会わない、交渉に応じない。交渉に応じるように勧告してくれとの訴えであったと思います。これに対しましては、すべてこれ結社の自由委員会で受けとめまして、昭和三十五年の秋から三十六年の六月上旬までの慎重審議の結論が出されているわけでありますが、いま申し上げた第一点については、文部大臣と日教組との間には労使の関係はない。労使の関係のないところには団体交渉などあり得ないということでありました。 第二点は、ストライキ権というものが日教組
検定した教科書、教科用図書以外は、原則として使ってはならないとしております限りにおいては、教科書は使わないでよろしいという自由はないわけであります。制度上。その意味において検定された教科書を必ず使え、その教科書に盛られておることは、基本線として堅持しながら教えねばならないということを含んでおるものと私は考えます。
もちろんそのとおりでございます。検定された教科書以外を使ってはならない、検定された教科書である限りはどれを使ってもよろしい、そういう趣旨と思います。
それは私は本質的に間違いではないと思います。程度の問題についての批評はあり得るかと思いますが、検定された教科書を必ず使うという結果にはむろんなることであります。しかも、検定された教科書は数多くございましょうが、その中でどれがいいかを選択するという過程を経まして、最後には一つになることは必然的な算術的な結果であるわけであります。それが地域的にある区域を限って一つであるということが望ましい場合、採択権限を持っておるものが相談をしまして、地域的にある一種に最終的にはきめるということは、学校教育法第二十一条等の本質を変えるわけじゃございませんから、違法であるというものではむろんない。むしろ、そのことが適切であるという理由があるならば、むしろ
検定に合格した教科書は、学校教育法第二十一条の第一項に言う意味において、どれも甲乙ないという、検定効果というものはそういうものだろうと思います。ですけれど、その同じ検定を受けた教科書に甲乙なしとしましても、教える上から、あるいはその地域的な立場から比較検討しましてベターである、よりよきものである。同じ検定教科書であるにしましても、いずれを好ましとするかという判断の余地があるはずだと思います。そのことがあり得るであろうから、競争的に教科書会社が編さんして検定を受け、種類がたくさん出てくるということを制度上いいこととして今日までやってきておると思うわけでございまして、同じ検定効果としては同一価値でありましょうとも、いずれが便宜か、よしと
現行法から当然そう理解すべきものだと思っております。
原則としてそういうものかと思います。しかしながら、現に教職にあるなしということに限らないと思います。また、教職の経験があったことのみに限定されるべき性質のものでもなかろう。要は衆知を集めて、その検定された教科書の中でも地域においてこれが一番いいんだと結論を出す場合の判定は、なるべく広い視野に立って、また現場の教師の体験も織り込みながら選定される、採択されるということが適切だと思います。
原則として教師が一番適当な担当者である、そう思います。教師だけになければならないかと言えば必ずしもそうではあるまい、こういうふうに思います。教師だけで採択しては適切でないということを、この選定眼そのものから申し上げる気持はありません。問題は、検定された教科書の中でこれを使うのだと最後的にきめまして、それに基づいて教師が教える、そういう関係に立とうかと思いますが、これを採択するんだという決定そのものは、これはやはり教育行政のうち内において処理する課題だと思うのであります。そうします際に、採択権限、採択責任を持っておる教育委員会が、今、小林さんも指摘されますように、私もそう思うのですけれども、原則として教師が一番選定するのには適当な人で
そうとは思いません。採択権限は教育委員会にありとする前提で申し上げておるのでありますが、採択されました教科書がすべて検定教科書以外のものでないわけですから、それ自体では問題はございませんけれども、いずれがベターかという判定の結果については、判定するに至るまでに教師の意見が十二分に取り入れられておるとしましても、そのよしあしを誤って、ベターでないものを選んだということがかりにあったとしまして、そのことについての責任者はだれかというならば、それは教育委員会だと、学校の先生そのものじゃないという関係に立つのが採択ということだと思うのであります。その意味において、単に知らせるなんということでなしに、採択した結果について住民に責任を負う、その
少し申し上げる意味が徹底していないように思いますが、補足して申し上げます。たとえば教科書の検定は文部大臣の権限であり責任だとされますけれども、文部大臣みずからが検定の能力があるということではむろんなくても検定するに当たっては、どの教科書会社で作りました教科用図書の中で、どれが検定に合格するかいなかということを、学習指導要領をいわば基準に判定をする、その能力というものは、これもまた教師ないしは教育的に特に専門的な勉強、努力をしておる人にお願いをしないことにはできない道理であります。しかしながら、検定した結果については、文部大臣が国民に責任を負わねばならぬという建前だと思うわけでございますが、それと同じ意味で、その地域で検定された教科書
採択能力は教師が一番適任であろう、これは小林さんと私も同感であります。採択行為という行政行為それ自体、それはだれがやるかということは教育委員会がやるんだ。その採択行為を最終的に決定づけるまでは、どれがいいかの比較検討の能力のある教師の意見が十分に反映さるべきものである。その反映された裏づけのもとに教育委員会が採択という行為を最終的にする、そういう関係を申し上げたわけであります。
御指摘のとおり、具体的には私は御説明することはできません。私が理解しますのは、「教諭は、児童の教育を掌る。」とある。そのことが専門職の意味でもあり、かつまた免許状の出てくる根源であろうと思います。換言しますれば、教育活動そのものは、免状を持った先生でなければやっちゃいけないという関係に立とうかと思います。
具体的なことは、必要があれば政府委員からお答えを申し上げます。教諭が教育をつかさどるということは、先刻も申し上げましたが、法令の範囲内において制限され、留保されておるもの以外はすべて行なう。免状を持った先生が教えるんだ、こういうことだと理解いたします。私が、文部大臣が責任を負うとか、文部省が責任を負うとか申し上げます意味は、法令の範囲内において文部大臣に留保せられた責任、権限に関する限りは文部大臣が負わねばならないということを法みずからが定めておる、こう理解するからでございます。その点を繰り返し申し上げれば、学校教育法二十条の教科に関することは文部大臣がこれを定めるということは、文部大臣の責任において基本を定めて、それを国民に責任を
もちろんそうでございます。
検定教科書あるいは学習指導要領には、憲法、教育基本法その他の法令に違反するようなことがあってはならぬものと思います。