そうです。
そうです。
現在満三十二歳、無職、東京教育大学の研究科に入る準備をしております。
ええ、学生ではありません。しかし応召前に大学の学生でした。これからもまた学生になろうとしております。
大正六年七月生れです。北海道で小学、中学を終尾、それから東京の高等師範学校の文科第一部第三学年を終つて、東京文理科大学哲学科を卒業しましたのが昭和十六年、昭和十六年四月から昭和十七年の十月まで、北海道の旭川師範学校の教諭、それから昭和十七年十一月から昭和十八年の十月まで京都大学大学院文学部哲学科において勉学、昭和十八年十一月三十日に召集されました。部隊は北海道帯広の北部第九十一部隊、それから初年兵時代を北千島において送り、向うで幹部候補生に採用されまして、また昭和十九年の三月北海道帯広に帰り、それから千葉の陸軍高射学校を終了し、昭和二十年の二月満洲に見習士官として、満洲の鞍山にありました満洲第一二二四部隊、これは照空部隊ですが、それ
私は初めはアクチーヴであつたわけです。さつき申しましたように、一九四七年七月から九月くらいまでは、その当時できました政治経済究研会の指導をしておりました。けれどもさつき言いましたような事情から、ソ連側からブルジヨア観念論者、反動として目され、それ以来ずつとアクチーヴではありませんでした。一九四八年の六月か七月ごろソ連の政治部の将校、本部の方から少佐の人が来て、お前は一体、民主運動をやるつもりかと言われました際、私は民主主義者ではないと断言しておきましたけれども、向うの日本人の間の民主運動に対して肯定的であるか否定的であるかと言われれば、やはり収容所生活の危機を脱する一つの方法として、それはやはり肯定しておりました。それから一九四八年
それは初めはアクチーヴ、ほんとうの熱心な民主主義者というのはほとんどいないわけです。ソ連側としては、もうどんどんアクチーヴをたくさんつくれ、民主主義者をたくさんつくれということを要求されるわけです。ですからできたばかりの民主委員会としては、どうしても形上数を多くしないといけない、数を多くする必要を感じたわけです。とりあえずとにかく思想を問わないで、小隊長以上はみなアクチーヴにしようじやないかということで、私どもの方の収容所分所ではやつておりました。けれどもだんだんそのうちに実際の政治活動をやる分子も出て来ました。
ですから最後の段階においてはやりました。
要請を伝達したというような事実はなかつたと思います。九月十五日のあの日あの場の状況を、私の記憶に基いてお話します。九月十五日、その当時第九分所の所長は親衛中尉のマルテルスキーという人ですが、帰還する日本人を輸送中で留守でありました。所長代理の中尉シヤフイーエフという人が、収容所のクラブに、数日前新しくウズベツクスタンのタシケント地方から移つて来たところの日本人の軍事俘虜並びに抑留者を集めまして、収容所側からは所長代理のシヤフイーエフ中尉と、それから政治部将校の上級中尉のエルマーラエフという人が出席しました。所長代理のシヤフイーエフ中尉は、集めたところの日本人に対して、新しく他の地区から移つて来たところの日本人に対して、収容所生活心得
いつ諸君が帰れるのか、それは諸君自身にかかつている。諸君がここで良心的に労働し、真正の民主主義者となる日諸君は帰れるのである。日本共産党書記長徳田は諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している。以上があの日あの場の事実で、私の関知するところであります。
それは新しく移つて来たところの日本人に対して、所長代理が生活心得を訓示するというのが主目的であつたろうと思います。それは初めて行われた集合であります。クラブの収容人員は大体三百名くらいだと思います。三百名くらいの日本人が集められました。そのとき第九分所に移つて来た日本人は九百数十名いました。ですから、予定から言えば、まあ二回ないし三回にわけてソ連側でも話す予定だつたようですが、時間もたつた関係上、一回だけでよして、第一回の集合に聞いた者が、あと兵舎に帰つてみなに話すようにということでした。
その収容所にいる日本人ですか。九百数十名です。
いやいや、初めの予定では二回ないし三回にわけて話すようなことも、ソ連将校も言つておりました。けれども、第一回の集合が終つてから、時間の関係もあつたでしようが、第一回に聞いた者が兵舎に帰つて、仲間に話すようにということで、その後の集合は行われなかつたようです。
帰国の問題についてでありますか。
帰国の問題については一人であつたと思います。その一人の質問に対して、政治部将校はかなり長く答えたわけです。
まずあの人たちの気持なり、あの場の雰囲気も十分考慮に入れなくてはならないと思います。私としては、少し事実とは違うと言えます。けれども、事実とまつたく違つた悪質なデマとも私は考えないのであります。
第一に、帰国の問題については、捕虜の間ではきわめて話に尾ひれがついたり極端化します。第二番目には、特にあの人たちは帰国問題には非常な不安を持つていたです。というのは、今までおりました土地においても、帰国のたびごとに選から除外された人であり、またカラカンダに来るときも、帰国という希望を抱いていたのに、帰国の話は出ないで、かえつて生活心得、これから冬になるから防寒の用意をしなければならないというような話も所長代理がしたということから、一層不安であつたわけです。第三番目には、あの人たちの中には、日本共産党に対して好意を持たない人も少くなかつたわけです。ですから徳田が期待していると言えば、それは何か連絡している、関係している、工作している、
日本語の方がはつきり記憶に残つております。けれどもロシヤ語の重要な各語は覚えております。全部の言葉を完全にロシヤ語で覚えておるかといえば、そうは言えません。
完全であります。
すべてのロシヤ語一語々々に至るまで完全とは言えませんが、大体は、私の記憶するところはそうである。特に重要な言葉については、ロシヤ語を入れておく必要があると思います。ことに向うさん側にも通訳の人がおりましたし、私の通訳としての立場からも、ロシヤ語を入れておく必要があると思いまして……。
ロシヤ語の二行目にあるタブロソーウエスノというつづりが間違つております。これは私が手記を送つたときの間違いであります。手記としては間違つておりますけれども、あとですぐ気がつきました。それから三行目の最後のデモクラータミ、そこにコンマを打つて、その次の行の一番初めの字タクダーは、これは大文字でなくて、手記には小文字にしてありました。そのほかは大体……。