あつたなかつたか、政治の複雑なことは分りませんです、(「議事進行」と呼ぶ者あり)
あつたなかつたか、政治の複雑なことは分りませんです、(「議事進行」と呼ぶ者あり)
タス通信の言うように全然なかつたとすれば、あのソヴイエト将校の発言は事実ではなかつたと思う、こういうわけであります。或いはその政治部将校が自分の独自の、自分だけの個人的な気持から言つたのか、こういうわけであります。
私自身としてはそういうことを考えませんでした。というのは、もつとそれを詳しく言いますと、政治部将校というものは十一分所の所長でありました当時、大変酒呑のだらしない男だというので首になつております。第九分所に行つてからは、何かはかない倉庫番かなんかやつていたのであります。それが一九四九年の何月頃からか政治部将校になつたそうであります。その場限りのことであろうと私としては政治将校の性格からは思つていたわけであります。
私自身としましては、徳田書記長が何と言われようと、前に参議院並びに朝日新聞、アカハタ紙に出したときの気持と少しも変りません。で、徳田書記長のあの場面を見ましても、まあこれは暴れるな、政治というものは相当実際においては乱暴なことをやる。参議院を見てぽつとしただけでありまして、別にその気持は、最初に感じたときの気持と全然、あの徳田書記長の言葉によつてどうこうというような心理的な影響は、感じておりません。
私一人としては徳田要請、あり十六日の傍聽以前においても以後においても徳田要請があつたかなかつたかということは、やつぱり自分自分何も分らないのであります。併し現在、今委員長さんからしばしば聞かれましても徳田書記長と、それから今度は僻地カラカンダの一分所の政治部将校とはどうも連絡がないように感じます。直接の連絡というよりも、心理的に言つても委員長さんの出されたような問題から言つても、どうも何ら関係がないように思います。
併しあの政治部将校エルマーラエフがその場限りのことを言つたのだと私が感じましても、客観的に実際そういう徳田要請があつたかも知れないのであります。ですから徳田書記長といたしましては当然あのような嚴しい強い態度で否定されたことは、私が傍聽しても、しなくなも当然予想されたことと思うのであります。別に傍聽後を振返つて見ましても心理的に何ら変つておると私は自覚しないのでありますが……。
それは違う理由で……。
その場合、共産主義というのはどういう意味でありますか。
違うとは別に申しませんですが、まあ共産主義者というものは本当に共産党員というふうに、それ程に徹底されるかどうかということは、ちよつと疑問だと思うのです。大体カラカンダ地方は政治教育など遅れておる、遅れておると言われましたが、大体各收容所とも一〇%か二〇%くらいのアクチーブというものがおりました。それからその外六、七割くらいですかね、デモクラテイーチエスキイ・ナストロエンヌイエ、まあ民主主義的傾向者、或いは簡單にデモクラートと言われる者がおりました。それから今度は尚残りに反動と呼ばれる人がおつて、その程度で、ソヴイエト收容所当局も大体認めて、このくらいで満足したようでありますが、だから共産主義者という意味をどういうふうに‥‥。徹底した
自分としては、ソ連独自の立場と思います。何故ならば、私達の行つておりましたカラカンダには日本人以外にドイツ人も、ルーマニヤ人も、ハンガリー人も、殆んどすべての国民がおりました。そうしてそのそうした白色人種に対してもやはり同じように、むしろ日本人よりも却つて言葉なんかよく通ずるせいか、文献にしましても、よく政治教育をやつておりましたから‥‥。終ります。
カラカンダ地区の通訳として責任を果していないことがあります。それは自分の帰還が真近になつてから六、七人会いました。樺太から処刑人としてソ同盟に連れて来られて、刑を二年なり、三年なり終つた、そうしてその人達が帰国する場合に、軍事俘虜の方はどんどん帰るのに、その人達は收容所にも收められず、一応生活の安定は得ておりましたけれども、自分達帰国については非常に不安であるというので、自分もその委託を受けまして收容所本部へ数回行きましたけれども、あれは軍事俘虜とは取扱は違うのだ、お前達と一緒には帰れないのだ、こう言うのです。そこで内務省の方にも行きまして、内務省の外事部だと思います。そうすると、そこでは軍事俘虜はこんな所に関係すべきことではないと
分りました。