反動摘発、反動吊上げ、反動暴露というようなことは書かれておりました。反動を帰えすなというようなことも、相当とは言えませんけれども、まま書いてあつたと記憶しております。
反動摘発、反動吊上げ、反動暴露というようなことは書かれておりました。反動を帰えすなというようなことも、相当とは言えませんけれども、まま書いてあつたと記憶しております。
心理の問題でありますけれども、相当強く響くと考えます、自分は。
要請があつたかどうかということが、そもそも問題なのでありますけれども、私は一九四八年度の帰還の月まではカラカンダ地区の第十一分所におりましたのです。一緒の管理下にあつた外の分所のことは全然知りませんです。一九四八年までは大体健康を基準にして帰したと思います。一部の帰つて来た人が申しますように、アタチーブの諸君の申しますように、ソ同盟におけるところの捕虜生活は決して天国のような生活では別になかつたです。やはり体が衰弱した人も相当あります。私のおりました十一分所におきましても、帰国のときには、上の方からソヴイエト人の医者が来まして突然身体検査をして、そうしてチエツクして行つて、それを帰すというような方法でありました。一九四九年度に入りま
質問がよく分らないのでありますが。
私が通訳しましたあの言葉が、そう帰還事情に強い影響を與えたとは私は感じませんでした。
私は大体一九四九年三月までは一ヶ分所において通訳をやつておりました。一九四七年の……そうですね、半ば頃までは主として收容所内部の諸問題についての通訳であります。それからその頃になりますと、大体收容所に残りました日本人の日直にしましても、大体ロシア語も何とかかんとか通じるようになるというので、それ以後、あの先程お話しました問題がありまして以後、ああした事情がありまして、私は主として作業場において作業の関係の通訳をしておりました。一九四九年三月以後そうした各收容所共通の通訳としましては、向うのカラカンダ地区におきまして、先ず第一に一ヶ月に一遍は生産管理というものをやりますが、各收容所の生産の成績を調べて、いい收容所は褒める。悪い收容所は
そうですね。まあ結局各分所におけるところの政治部将校が、定期的にやはり機会があるときには、革命記念日とかメーデーとか、そういうときには演説をするような任務を持つておつたのではないかと思います。私の記憶では一九四九年の三月以後政治的な……それ以前において一分所におりましたときには、そうしたメーデーのときやら、或いは又ソヴエト同盟の憲法発布の記念日のときの演説、或いはスターリン誕生日のときの政治部将校の演説などを通訳した経験はあります。一九四八年三月以後、特に政治的な面の通訳としましては特別に記憶しておりませんが、帰還者が帰還するとき、各收容所がやはり帰還者の大体というものをやる。そのときにもやはり政治部将校は、相当政治的な内容を持つた
覚えておりません。
はあ。
はあ。
そういうことを言つた記憶はあります。ソヴエト将校側としては、初めは三百名くらいずつに分けて二回くらい話すつもりだつたのかも知れません。併し時間の都合上そういうようにして話したかも知れません。
一般の人々はよく知つているとは言えないだろうと思います。
間違つたと考えるかというわけですか。
どういう事情でヒラトフ少尉という階級が出たのか私達としては想像が付きません。第十一分所の所長もやつておりましたのでよく知つております。エルマーラエフ中尉に間違いありません。
傍聽しておりました。
私自身としては、そのようにも、そうでないとも、どつちとも言えません。(「はつきりして貰おう」「はつきりしてるじやないかと呼ぶ者あり)
ええ。
政治というのはむずかしくて分らないのです、実際。
私個人の印象としましては、あの爺さんはこういう……。
いや、あの将校、政治部の将校のことを爺さんと言つているんですが、こういうことを言つて逃げたと感じました。感じたのであります。帰国に関することをはつきり言えなかつたか言うことを欲つしなかつたので逃げたという感じを受けたのであります。