私が商工省の総務局長に在任いたしましたのは昭和二十年の十月十二日から翌年の一月十日までであります。
私が商工省の総務局長に在任いたしましたのは昭和二十年の十月十二日から翌年の一月十日までであります。
私が就任する少し前から兵器処理問題が起きておりましたので、私が就任いたしましてからいろいろの大綱その他正式決定になりまして、私の在任中にそれをいたしました。
こまかい内容は大分前のことでありますので、よく記憶いたしておりませんが、終戰後連合軍に接收せられました日本の兵器類、これが当時日本の経済復興の非常に資材が不足しておりまして、また当分の間工場等の活動が期待できないので、経済の復興の資材の当てがつかないという状態でありましたが、それを拂下げを受けるという非常な連合軍の好意によりまして、日本政府に返還されることになりました。しかしこれは内務省を主管官廳としてやることになり、ただ商工省としてはそういう物資が主として商工省関係にあるものでありますから、内務省からいろいろ相談を受けまして、その立案等に当つておりました。そして商工省におきましていろいろ研究いたしました結果、処理の要綱の原案を商工
表題ははつきり覚えておりませんが、兵器等処理要綱という名前だつたかと記憶しております。
その内容は兵器等の処理については民間業者よりなる委員会をつくつて、それにその処理をやらせる、その委員会を構成するメンバーは有力な民間の五会社をして当らしめる。そしてその処理しました兵器は鉄その他非鉄金屬、こういう原料になりますので、それらの配分についてはさらに別の委員会を設けまして、各省相集まつて適当な処分方法を講ずるというような内容であつたと思います。
そうであります。但し、それは原案でありまして、正式決定は主管廳の内務省の方でなされておりました。
五社の選定につきましては先ほど私が申し上げましたように、私の就任が十月の中旬でございまして、あるいはもうそのころ大体五社の選定についてはきまつておつたのかもしれません。しかし、それはあくまでも私の時代に正式決定したものでございます。
その選定につきまして当時私としてどういうことをしたか覚えがございません。覚えがないということは、おそらくもう大体事務的にはきまつておつたんではないかと思う。なお先ほどの御質問にお答えしますが、その問題につきまして、私として何か指示を與えたとかあるいはほかの方面から頼まれたとか、そういうようなことは一遍もございません。
特に前任者からこの問題についての引継ぎは何にも受けておりません。当時は終戰後の非常に物事の混沌たる状態でありまして、いろいろな從來の制度を全部根本的に立直さなくちやならぬというようなときでありましたので、從來の官廳の慣例たる引継書でやるというようなことを避けまして、別段こまかい引継ぎをいたしませんでした。前局長から特にどうという引継ぎを受けておりません。
そういう点については何の引継ぎも受けておりません。ただ私が前からある程度きまつておつたんではないかと申し上げましたのは、私が局長としてこの問題を決裁いたしましたその際に、初めてこまかい案の内容を部下から説明を聽き、また五社を選定した事情等も聽いたのでありますが、そういうふうに進行しておつたのはあるいは私の就任した前からすでに進行しておつたんではないかと思つたので、先ほどああいうふうに申し上げたわけであります。
原案としての形ができておつたかどうかわかりませんが、つまり原案の骨子をなすような点についてはいろいろ研究が進められて、ある点はすでにまとまつておつたものと考えます。
私の局におきましては大堀という事務官が担当しておりました。鉄関係は当時の鉱山局の鉄鋼課長細井君が担当しておりました。非鉄金屬関係は当時の鉱山局の非鉄金属課長山地君が担当しておりました。
その通りであります。
総務局長に就任いたす前は内閣の調査官をいたしておりましたが、それから商工省に移りまして、総務局長になるまでの間ほんのわずかな一月足らずの期間、商工省の参事官という名前で別段担当の地位をもたずに待機しておりました。
私の前は高峯明達というのが総務局長でありました。
今東京におります。
そうであります。
当時名前は聞いておりましたが、私は会つたことはございません。ただバラード大佐が帰國する少し前でありましたか、いろいろ石炭問題その他商工省の関係において努力していただいたというので、商工大臣が招待されたことがあります。そのときに初めてお目にかかりました。
そのときだけであります。
その席上でもほかに大勢の方がおりましたので、私は別段言葉も交わしませんでした。