支所は、大阪、広島、福岡、新潟、名古屋、札幌と記憶いたしております。
支所は、大阪、広島、福岡、新潟、名古屋、札幌と記憶いたしております。
それはやはり証劵処理調整協議会が現物の有価証劵の受渡しに当つておりまするので、各支所にそれを現送いたします。そうして売り捌いた所へ渡すわけになつております。尚協議会から放出いたしまする株は、一般入札の場合におきましては、東京、大阪、名古屋等のみならず、辺鄙の地にもその機会を與えるという必要がございますので、そこらで入札を受付けておるということでございます。
職員の構成は、各部課がございまして、おのおの経験を持つております者を採つておりまするが、主として証劵取引所若しくは金融機関等に携つておつた者がその主流をなしておると考えております。
証劵処分に関しましては……。
それは同じ銘柄を放出しますときに、我々の方で例えば三菱重工なら重工のを幾ら、何円で放出する。そうすると、国の財産税で物納する株を又違つた値段で放出される。或いは委員会は違つた値段でやられる。或いは又閉鎖機関が整理されるものを違つた値段で違つたときにやるということは非常な混乱を来たしますので、大体三機関の持つております同じような銘柄はそこへ提出いたしまして、同じ値段で一本で国中に放出するというような関係がございますので、どうしてもそういうような調整機関が必要だと存じます。
閉鎖機関とそれから持株会社整理委員会と大蔵省。
大蔵省の方はその地方で……これは大蔵省のことでありますからよく内容は存じませんが、私の了解いたしますところでは、最近各地方で整理がついたものは、少しの数量であれば直接処分されるようでありまするが、その主たるものはやはり協議会を通しておりまして、その直接処分でも協議会の承認を得て直接処分ということになるわけであります。
俸給及び向うの維持費です。
間接経費全部でございます。
それでは先ず委員会の業務の概要を御説明する方がいいと思いますが、その先に手続について申上げます。 持株会社整理委員会令という法律がございまして、持株会社に指定いたされますと、又財閥家族、指定家族ということになりますと、その所有しておる有価証劵は持株会社整理委員会の方へ讓渡すということになつております。それでこちらの方から指示をいたしまして、向うの有価証劵保有額を調査いたしまして、直ちに引渡に適当なものは指示をしてこちらへ讓受け、それに対して受領証書を発行いたします。それで例えば未拂込株でございますとか、或いは銀行の担保に入つておるというようなものは、その未拂込が拂込まれたときに名儀が委員会へ移るものであります。現物はこちらの方で
これは地方財閥関係として同族会社が指定されました中の一つでありまして、三栄不動産と申す会社であります。
持株会社の整理には、解散をいたしますものと、それから継続をいたすものと二種ございます。純然たる同族会社或いは株だけを持つておるという会社は、持株会社が禁止されておりますので、これを清算いたすことになつております。それから持株会社中操業部門を持つておる会社は、その操業部門は継続いたすということになつておりますので、ただ持株的色彩を拂拭するということだけにいたしております。例えば鐘紡、鐘ケ淵紡績等は紡績会社でありまして、当時百七十五社ぐらいの子会社を持つておつたかと記憶いたしますが、そういうような子会社のいわゆる持株というものは処分いたさせまして、紡績部門は操業を続けるというように、二つございます。
それは今申上げました通り、事持株会社は清算をするということになつておりますので、会社の状況を調べまして、内容を調べまして、これは解散に持つて行くということを決めるのであります。今の操業の部門を持つておりますものは、これは操業部門を持つておるから継続をするということを、こちらで調査をいたしまして決定いたします。
現地と申しますと、本店所在地もございますし、工場所在地もございますが、勿論会社に連絡をいたしまして、本店なり或いは本店所在地の、大きな工場に本店があるような場合、主脳部が……そういう工場に連絡をいたしまして、それを決定いたすわけであります。
調査の方法はさつき申上げました通り、その会社から資料をとりまして、そうしてそれによつて判断する、勿論出掛けるわけであります。その会社の本店所在地の幹部なり、なぜかと申しますと、持株会社というものは方々に工場を持つておるものではなく、一つ所に株を持つておるものですから、内容を調べれば直くに分るわけであります。それで皆、例えば第五次の指定二十数社は同族会社、持株会社という見当の下に指定されておりまして、これは大体解散を予想されておる会社であります。
大正七年三井物産株式会社に入社しまして、その年にアメリカに参り、日米貿易、それから米國と中國との貿易に從事いたしました。大震災の年ですから大正十二年かと思いますが、よしまして、一、二年ほかの貿易事業に携わりまして、日本綿花株式会社に入りましてやはり日米貿易、米國と中國との貿易に從事いたしました。爾來大体ニユーヨークにありましてときどきこちらに帰つて参りました。それからニユーヨークにジヤパン・コツトン・アンド・シルク・カンパニーという会社が設立されまして、私が社長になりまして、やはり同じ貿易に從事しておりました。最後には戰爭中第二の交換船で帰つて参りました。それから日綿実業株式会社、これは大体纖維の貿易の株式会社でありますが、そこの渉
はい。
設立準備委員は現在の委員とは違います。当時は中根貞彦、私野田岩次郎、笹山、岡田重吉だと思います。それから飲島幡司、大森洪太、脇村義太郎、義濃部亮吉、さように今覚えております。ただいまはそのメンバーが違つております。
さようでございます。
大森洪太氏がなくなられ、中根貞彦さんが追放該当者になりまして、その次には飲島幡司君にお頼みしようと思つておつたのでありますが、これまた追放該当になりまして、それで当時常務委員で行こうと言つておりました笹山忠夫君が委員長に就任されたのであります。