私、高原豊秋です。
私、高原豊秋です。
四十八歳であります。
大正十年九月十六日に田端駅の駅夫として入りましてから今日に至つております。
学校は巣鴨商業第二本科を卒業しました。これは業務の余暇に行つたのです。夜学です。
それから田端の連結手になりまして、それから池袋、十条、品川車掌区、五反田、大久保、高田馬場、大船と転勤しました。
その間は池袋駅にはわずかしかおりませんでしたが、駅夫というわけで入りまして、それで連結の仕事をやりました。それから今度十条駅の駅手になつて行きました。それから十条駅の駅手から踏切着手をやりまして品川車掌区の列車手に転勤しました。それで列車手を少しもやらずに今度列車荷扱手になつて、それから今度五反田駅の、もとは警手といいましたが、警手という職についておりました。それから転轍担務になりました。それから車掌見者いを品川車掌区でやつたこともあります。それで、車掌見習いが終つて大久保駅の改札に行きまして改札から今度大船駅へ、夏のうち少し行きました。今度は高田馬場に、案内掛かと思いましたが、行きまして、それから今度信号掛になつたのです。
信号掛になつたのは、月日ははつきり覚えておりませんが、昭和十九年だろうと思います。十九年の、七月ごろから二箇月半ばかり逗子の海の家で二箇月講習を受けました。そうして講習が終りまして、東京駅の信号掛になりました。それで昨年九月ごろだと思いますが、桜木町の駅の信号掛に転勤したわけです。そうして今日に至つております。
そうです。
それはいろいろありましようか……。
二箇月くらいが最短期間じやないかと思います。
長いのは三箇月以上じやないかと思います。
つくと思います。
術科が主です。
十九年の七月に信号掛になつたのではないのです。七月から講習を受けて、九月ごろから東京駅の信号掛になつたと思います。
その間において、東京駅で、信号の免許は持つておりましたが、少し警備掛をやつてくれというので、警備掛を少しやつたことがあります。
概略六年ぐらいと思います。
古い方じやありません。
新しい方でもないと思います。
中間ぐらいだろうと思います。
信号手は、直属系統は駅長さん、あるいは助役さん、運転掛が直属系統になつております。