自分は現在帰還者楽団の楽長をやつております。満三十九歳であります。
自分は現在帰還者楽団の楽長をやつております。満三十九歳であります。
一九一〇年七月二十八日、つまり昭和三年に青年学校を中退いたしまして、入隊まで百姓をやつておりました。そして昭和六年の一月十日、姫路野砲兵第十連隊に入隊いたしました。そして昭和六年の十二月、満洲事変に反対いたしまして憲兵隊に検挙され、昭和七年の十二月二十四日、治安維持法によつて、懲役二年、四箇年の執行猶予。それから一箇年戰地に行つておりました。それから後ずつと二箇年百姓をやつておりまして、昭和十年渡満いたしまして、昭和二十年七月二十二日綏西一〇二部隊に応召されました。それからムーリーで開戰になりまして、そうしてムーリー陣地におりました。捕虜になりましたのは二十年八月二十日、東京城付近であります。そして九月二十日にコムソモリスクの第一分
昨年の十一月五日に帰つて参りました。
私はソビエト政府の命令がなかつたために帰れなかつたのであります。
そういうことは全然わかりません。
六月十二日から翌年の十二月三十一日までです。
そうです。
日本新聞の宣伝部に所属しておりました。
編集の方は全然関係ありません。
そうです。
宣伝部では映画を收容所に持つて行つたり、あるいは新聞を持つて行つて解説をしたり、そういうことをやつておりました。
それは赤軍が、日本軍の将兵に與える新聞というように書かれておつたと思います。
私はもう四七年の暮れに出ましたので、どういう組織であつたか記憶いたしませんが、私は宣伝部に所属しておりました。印刷とか編集とかいうのがあつたように記憶します。
各地の收容所からいろいろな経験、そういうものが通信されておりました。そういう所からとつておりましたし、それから私も書きましたし、いろいろ他の人たちも書いておつたようでありますが、今記憶ありませんです。
やはりソビエトの人もおりましたし、日本のわれわれの仲間もおつたわけです。
発行部数は全然私たち記憶にありません。
大体入ソ当時は二十名に一枚くらい。それからハバロフスク地方では十名に一部ずつくらいであります。それから帰るようになりましてから、二名に一枚あるいは三名に一枚というような状態で配付されておつたようであります。
わかりません。
私のおりました当時は、東京放送、主として真相箱というのがあつたように記憶しますが、それとか、あるいはタス通信、それからソビエトのプラウダとかイスヴエスチヤという新聞、その他出版物、そういうものから取材しておつたように記憶いたしております。
アカハカの記事も転載されたのを読んだように記憶しております。