植村さんは九月に一度行かれまして、話がつかずに帰られまして、それから十一月に総理が行かれまして、そして早期解決のために植村さんをもう一ぺん派遣して話をしようということを言っておられます。それに基づきまして、十二月に植村さんがまた行かれまして、そのときも話はつきませんでしたが、そのときに最後に、このお互いに出ました数字というものをあくる年の三月になって先方側がこれを受諾すると言ってきたわけであります。
植村さんは九月に一度行かれまして、話がつかずに帰られまして、それから十一月に総理が行かれまして、そして早期解決のために植村さんをもう一ぺん派遣して話をしようということを言っておられます。それに基づきまして、十二月に植村さんがまた行かれまして、そのときも話はつきませんでしたが、そのときに最後に、このお互いに出ました数字というものをあくる年の三月になって先方側がこれを受諾すると言ってきたわけであります。
それが現在まとまっておる数字でございます。
「岸日本国総理大臣は、一九五七年十一月十九日より同二十一日までの間ヴィエトナム共和国政府の賓客として、その首都サイゴンを訪問した。ヴィエトナム共和国訪問を機会に、岸総理大臣はゴ・ディン・ディエム・ヴィエトナム共和国大統領と国際情勢ならびに両国が共通の関心を持つ諸問題につき懇談を遂げた。同大統領と同総理大臣は、日本とヴィエトナムの両国がひとしく熱望する世界平和に貢献するために国連憲章の原則および目的に従い行動することにより、国連の権威を強化することが必要であることを強調した。この目的のため、岸総理大臣は、ヴィエトナム共和国が一日も早く国連への加盟を認められるべきであるとの日本政府の意向を表明した。ゴ・ディン・ディェム大統領と岸総理大臣
戦争損害というものは三千九百万ドルよりはずっと大きいものであるということは、私は何度も御説明申し上げたわけでありまして、それをそういう数字に押えますために、最も向こうの希望するダニムというものを使いまして、そしてそのダニムの工事のどの部分までを日本が負担するかということで三千七百万ドルというものが出たわけであります。よその国の賠償におきましても、いろいろと先方の希望するものがたくさん出ております。ベトナムの場合もダニムだけではございませんで、そのほかにいろいろなものを向こうは言っておったわけでありますが、金額が小さいので、こちらがたくさんの金額を払う意思がございませんので、どうしてもダニム一つ、それに工業センターというものがちょっと
賠償の金額は、損害というものを頭に描きまして先方が大きな数字を出し、こちらがいろいろな考慮から小さい数字を出し、交渉の結果きまるのでありますが、そのきまるときにこのダニムというものが一つの考慮に入っておることは事実でありますが、これが算定の基礎というのは少し言い過ぎだと思います。ほかの考慮がもちろん入っておるわけでございます。
そういう議事録はないそうでありまして、わが方としましてはあくまでも役務と生産物を出すのでありまして、それが結果においてどうなるかは先方のやることでありまして、わが方はあくまで現金などを出すわけでありません。物と役務を出しているわけであります。
間違いになるかなりませんかは、向こうがどう使うかによってきまるわけであります。
われわれは七百五十万ドルの消費財を渡すわけでありますから、それを先方がどう使うかは今後の問題でありまして、間違いになるかならぬか、これは今後の問題であります。
消費物資として渡しましたものを向こうの政府が処分しまして、現金収入を得ますれば、それでそれを使えばそれは現地通貨になるわけであります。しかしこれはほかの国にもみなあることであります。
現金で出せば現金賠償でありますが、物で出した以上は現金賠償とは考えません。
賠償交渉で妥結します際に、その用途も一応参考になっておるということを申し上げておるわけであります。
南ベトナムに対します貿易のほとんど九割以上がICAの買付になっております。ICAの買付の中には五〇%ちょっと上回ったものが繊維であります。その他に機械だとかあるいはセメントというふうなものがその次に大きいものでありまして、今後は車両等がふえるのではないか、こういうふうに考えております。
現在輸入制限をいたしております銘柄は、日本が出しておるものとは違います。日本が出しておりますものは輸入制限いたしておりません。
先ほど申しましたように、輸入制限の対象となって打撃を受けておりますのは、台湾、インド等の下級綿布と考えられております。一般日本製品につきましてはプリントとかエンボスと書いてありますが、これらは制限品目に含まれておりませんので、大きな影響は受けておりません。それから繊維製品の輸出実績が減っておりますのは、ICAの援助の減少によるものであります。
餓死者につきましては、これは的確なる資料を欠いております。従いまして、われわれはいろいろと関係者の話を聞きまして、その辺の平均をとるというふうなことで二十万ないし三十万ぐらいじゃないかということを出しておるわけでありまして、これは資料がございませんわけでございますから、まあ当時の現地におった人とか、関係者の話を聞きまして総合して出した判断でございます。
大体におきまして四四年の秋ぐらいから四五年の春にかけて、その辺であると思っております。
それはその外務大臣が間違いで言ったか、新聞のミス・プリントかどちらかと思います。われわれは四四年の秋から四五年の春、こういうふうにこれはみんながそう申しております。
当時現地におりまして、この餓死者が出ておるのは見たという人間はたくさんございます。
先方の政府がわが方に二十億の要求をいたしました際に、正式に寄こしました書類に一九四四年十一月から始まった、こういうふうに書いております。
いつまでということはこれには書いてございませんが、みんながそういうふうに考えております。