どうして。
どうして。
独立をしたら当然取得するだろうと、これは想像と建前だけを言っておるわけです。しかし、実際に真実の独立をしなかったということは、これは外務省自身が認めておられるじゃないですか。外務省からお借りしたいろんな資料の中にたくさんございますけれども、インドシナ三国の政情その他はかいらい政権であり、ほんとうの独立でなかったという点は、これは至るところに書いてある。そういう認識を御否定になりますか。あるいは、そういう事実を御否定になるのですか。
あとで独立をした、ほんとに独立をした場合には、これは問題ありません。しかし、四八年の独立というのは、ほんとうの独立でなかったということは、外務省自身認めておられるじゃないですか。個所を一々指摘をいたしませんけれども、それじゃ、権限が制限をされておる、フランス人であるとか公務員である場合にも優先をする、あるいは公証人のごときはフランス人でなければならぬ、こういう状態の中で、ベトナム国籍を持っておったであろう、こういう想像が通りますか。私がお尋ねしておるのは、その当時の実態について外務省で出されたバオダイ政権に対するかいらい性の認識、その当時の書類によって明らかですが、その外務省の当時の認識というものは、これは間違っておった、こういうこ
五四年以降は別問題です。その前のサンフランシスコ調印当時、その当時、かいらい政権であった、あるいは国籍について、これは昭和二十九年ですから一九五四年、トラン・バン・フー氏外歴代の首相あるいは閣僚、有力者がフランス、これは市民権という表現ですけれども、市民権所有者で、国籍の上ではフランス人である、こう断定してある事実が、これが間違いか。少なくともその当時、今サンフランシスコ条約の有効性を争っておる、今じゃなくて、一九五四年当時、あるいはサンフランシスコ調印の当時において、かいらい政権でもあったが、なおフランス人である、こういう認識が間違いであったかどうか。それは当然、あとからベトナムの国籍を取得したから、その前にさかのぼって持っておっ
建前と想像、あるいは今日からさかのぼっての擬制だけはされるけれども、実際にそのときにあったかなかったかといえば、外務省自身がなかったと言っておるのですから、ないのはあたりまえじゃないか。このベトナム賠償の問題について、右翼団体で出しておる「民族と政治」の中に船田中氏が書いておられるが、船田中氏のように、国籍が何であるからといって効力に妨げない、フランス人であろうと、これが委任を受けて出れば、それでいいのじゃないか、こういう議論になれば別問題です。そういう議論をされるなら別問題ですが、そうではなくて、二重国籍を持っておったという主張をされるなら、その根拠をお示し願いたい。国際法上の建前について、国際法上、国籍の抵触に関する条約がありま
まあ、西方を主張されるわけですが、今までは、その国籍が何であろうということは言われないで、フランス人じゃないかという指摘があったものだから、それはベトナムの国籍を持っておったはずだと、二重国籍であったはずだという議論で対抗しておられますけれども、フランスからは、二重国籍であったろうというまあ報告があったということですが、ベトナムからは、なんの報告もないじゃないですか。これは事実は、その当時記述をした外務省の報告の通りだと思うんです。これはその事実を今にさかのぼって否定するわけには参らぬので、答弁は要りません。フランス人であった者、そして外交権についても非常な制限を受け、一本立ちでとにかく国が代表もできなかったような人間が、独立の国を
それは「全部を代表するかどうかはその後の決定に待つ」と書いてあるじゃありませんか。それから一九五九年の便覧の中には、「北ベトナムに主権が及ばず南ベトナムすら完全に把握していなかった。」これはちゃんと書いてある。この書簡の、交換公文といいますか、書簡の内部にも、南を代表し、それから全部を代表するかどうかはその後の決定に待つと書いてあるところから見ても、南だけしか代表していない。しかも実効力はなかったという点は、はっきりしているじゃありませんか。
結合をしたという事実がどこにありますか。
今その個所を引っぱり出して争わなければならぬのですが、この交換書簡の中には、明らかにこの南云々ということが書いてある。それから全部にわたるかどうかということは、その後の決定によるということですが、その全ベトナムについて選挙がいつありました。バオダイ帝については選挙も何もありわせん。これはゴ・ディン・ジェムについても南だけの選挙、それから北ベトナムは、北ベトナムと言われている民主共和国については、選挙を全部についてやりました。だから全部を代表するものは、それは民主共和国かもしれませんけれども、バオダイ政権は選挙も何もやっちゃおらぬ。それからゴ・ディン・ジェムは、南だけについて選挙をやっている。だから南のこれは政権云々ということは言える
文書は、「インドシナ三国の地位」の二十七ページに、一九四九年三月八日バオダイ帝あてフランス連合、共和国大統領の説明書簡の中に、一として、「南部ヴィエトナムの帝領復帰は左記手続に従いなされるものとする。フランス憲法第七七条により定められ、当該地域の地位変更に関する意見提出の責に任ずる南部ヴィエトナム地域代表会議創設法案のフランス議会による票決。前記規制変更と南部ヴィエトナムの帝領合一に対する南部ヴィエトナム地域代表会議の票決。」とはっきりこれは南部の帝領復帰についてそのステータスを決定する地域代表会議創設法案のフランス議会による票決が必要であると書いてあるし、それからベトナムの統一という点については、「コーチンシナ以外のヴィエトナムの
それでは次の問題に移る前に休憩を……。
先般、戦争損害の資料として、外務省でいろんな人に聞かれた資料を提出するということですが、その後いただきましたものは、電報一つしかございません。約束に従って資料をお出し願うことを要求をいたしておきます。 それから詳細は別の機会にいたすことにして、外務大臣にお尋ねをしておきたいと思うのですが、政府は南ベトナム、このバオダイ政権との間に、これが全ベトナムを代表するものとして講和条約を結び、それから賠償協定はゴ・ディン・ジェム政権との間に結んで、それが北にも及ぶのだと、こういう説明をしておられますが、実際に北に及ばないという点は、これは外務省の資料にも出ている。はっきり外務省の見解として出ておりますが、具体的に昭和三十四年の二月には、日
事実を御存じないということですし、別の機会にしてもいいのですが、現実に北にある政権との間に交渉をしてまとまればいいし、まとまらなければ機会を待つ以外にないと、こういうことですが、要するに、北を相手にして、ベトナム民主共和国を相手として交渉しなければならぬという点はお認めになったようです。それは今までの答弁とは違うと思うのです。南を相手にして北の問題も、とにかく賠償問題については、賠償問題だけでなくても、ほかの問題についても、南を相手にして交渉せざるを得ない建前であります。——明らかに違いますね、今の説明は。北を相手にして折衝をする、こういう点をお認めになったのですか。今までの答弁と違うことだけは事実でございます。
詳しい論議は別の機会にいたしますが、法律論議じゃないとおっしゃいますけれども、船と船とが衝突をして、そしていずれに責任があるかということで、賠償請求権という問題について、権力と言われましたが、あるいは政府と言われても同じことですが、それを相手にしないわけにはいかぬのじゃないか、それを認められたわけでありますが、そうすると、民主共和国を相手にしない、南に相談をすれば、南を相手にすれば、それで話は片づくのだ、北の船との間の衝突事件についても、話が解決するのだ、こういう従来の答弁、あるいは建前とは違っているじゃありませんか。こういうことを申し上げ、それを確認をして論議は別の機会にいたしたいと思います。 仏印と日本との関係は、これは法律
最初、いわゆる平和進駐と称して参りました当時は、フランスの植民地であり、あるいはアンナン帝国等のあれもございますが、三月八日、松本俊一大使が最後通牒を突きつけて云々ということでございましたから、フランス政府の出先機関、大使を相手にして折衝をしたことは私も知っておるのです。ところが、その後、バオダイ擁立と申しますか、これは日本軍で、あるいはコンデ侯を引っぱり出そうとしたり、いろいろしたようでありますけれども、日本に協力をする政権を打ち立てようとしたことは間違いがないのじゃないでしょうか。あるいは旧軍人のいうところに従うと、日本で独立をさした、フランスからの独立を日本軍がやってやったのだ、こういう説明がなされておりますが、フランスからの
それでは、現地の軍がやったことであって、日本政府は知らぬと、こういうわけですか。
この独立を承認したかどうかという点は、あとからの行為はわかりませんけれども、昭和二十年の二月一日の最高戦争指導会議の中には、前の方で、日本のいうことを聞かせるのだと、あるいは仏印軍なり、武装警察隊を帝国軍の統一指揮のもとに入らしめ、全面的にその指示のもとに行動せしむることというような点もございますが、そして仏印総督側に対して、共同防衛の誠意なきものを認むる場合には、実力行動をとるのだ云々という点もございますが、その中に「安南国等ニ対スル措置ハ左ニ拠ル」として、「現地軍ニ於テ適宜安南国等ノ独立的地位ヲ向上支援シ積極的ニ我ニ協力セシムル如ク施策ス」と、こういうふうにアンナン国に対してはその独立の地位を向上支援し云々と、方針として、その当
当時どういう態度がなされたか御存じでしょう。これは当時の新聞記事ですけれども、これは朝日新聞、昭和二十年三月十三日、現地からの報道班員からの報告ですが、前文にはこういうことを書いております。「六十年に亘りフランスの圧政に喘いで来た二千三百万の安南民衆の自由の日は来た、安南帝国保大帝は十日閣議を開き敢然独立の方途につき種々審議あらせられたが仏安条約を破棄し、十一日正午勤政殿において各大臣侍立のうえ厳かに左の如く安南帝国の独立を宣言すると同時にこれを世界に闡明した」、その中に宣言文が載っております。「安南帝国政府は本日を以って仏安保護条約を廃棄し安南帝国は完全にその独立を回復せることを宣言す、安南帝国は爾今独立国家として益々その発展を図
「現地軍ニ於テ」云々とは書いてございますけれども、その方針は最高戦争指導会議できめたことは間違いない。松本大使が最後通牒を突きつけられましたのも結局、その方針に基づいておやりになったことじゃないですか。片っ方は、それは日本が責任を持つけれども、片っ方はバオダイの独立なり、あるいは大東亜共栄圏についてやっていく云々については、これは現地軍がやったことで、最高戦争指導会議は責任は持たぬ、日本は責任を持たぬ、そんな理屈は通りませんよ、これは。
最高戦争指導会議の決定に基づいて行なわれた、そして現地軍が云々と言うけれども、それは現地軍じゃなくて日本の方針、そして独立を宣言した。それがかいらい的なものであろうか、あるいは実際の独立であるかということを今問うているわけじゃない。この日本の方針に従って独立をさせた、これはその当時の軍の関係者がわれわれが独立さしたと言っているのだから、これは間違いないと思いますが、それが現地軍だけの判断あるいは現地軍だけの責任でやったんじゃなくて、最高戦争指導会議で決定された方針を現地軍がやった以上、国が責任を持たなければならぬじゃないか、そしてその日本が責任を持つべき最高方針に従って宣言をやり、あるいは大東亜共栄圏建設の方向において、今後のアンナ