それでは、教科書は昔のままに残っておったけれども、現場における教育は、その正誤表によって間違いなく行なわれたと思う、こういう御答弁ですね。はたしてそうでしょうか。末端まで正誤表が正誤表ということで行ったかどうか、そういう疑問がございますからお尋ねしておるわけです。 それからもう一つ、新しい年度からはどういうことになるんでしょうか、それをお尋ねします。
それでは、教科書は昔のままに残っておったけれども、現場における教育は、その正誤表によって間違いなく行なわれたと思う、こういう御答弁ですね。はたしてそうでしょうか。末端まで正誤表が正誤表ということで行ったかどうか、そういう疑問がございますからお尋ねしておるわけです。 それからもう一つ、新しい年度からはどういうことになるんでしょうか、それをお尋ねします。
そうしますと、四十九年度の四月から使われる教科書については、従来の教科書にあった間違いというのはちゃんと訂正をされて出るはずだ。これはいままでつくられまして、何月ですか、昨年の何月かに検定を受けました教科書で、全部その点は確保されている、こういうことですか。
そうするとちょっとわかりませんが、下関でも地図は——これは地図をつくる会社で刷ったものでしょう。下関で発見をされましたが、それは下関の地図だけではありません。地図をさがして回ったわけではありませんけれども、おそらくことしの一月の末、まだほかにもあったと思います。それから教科書にも現にございますよということで、教科書を取り寄せてみると、まだやはり残っておる。そうすると、三年ごとの検定で、教科書自身についていえば、これは四十六年の印刷です。四十七年、四十八年のことしの印刷もあるいは直っていない、検定がまだ三年経過いたしておりませんから、ということになりますが、そうだと、一番最初言われましたけれども、金の問題で、せっかく印刷をしているから
そうしますと、教科書については、四十七年の九月に共同声明が出ましたから、四十六年に使っているものも間に合わなかった、それから四十八年に使うものも、すでに刷り上がって配付が済んでおったことだから、正誤表でいくしがなかった、こういうことで、正誤表で済まぬのだけれども、四十八年度についてはそれ以外になかったからやむを得ず云々ということでしたけれども、しかしその結果が、冒頭申し上げましたような、地図やあるいはその他についてもまだ間違ったままでおられるということになったわけですから、やはり教科書がどうなっておるかということが中心だと思いますからお尋ねをしたのですが、四十九年度からは間違いなく新しい教科書で行なわれる。そこは安心しました。
時間がなくなりましたから、最後に文部大臣に御答弁いただきたいと思いますが、これは初中局なら初中局の通達だけではない問題だと思います。先ほど来教科書の問題について、教科書会社を通じて著作者にも云々というお話がございましたけれども、正誤表でと言われますについては、まだ多少不十分な部面があろうことを考えますだけに、これは文部省、文部大臣の責任において、そういう間違いのないように指導する決意がなければならぬと思いますが、重ねて最後にお尋ねをいたします。
終わります。
私は、あまりむずかしい問題でなしに、通俗的なことでお尋ねをいたします。 道路の使用料の問題。道路だとか、道路の一部ですけれども、橋。この間、関門大橋はおかげででき上がりました。あれば下関から北九州市にも要請がございまして、ちょうど私が市長をしておるときに橋でお願いをしました。それも、北九州道路のように、つくり上げたらとたんに狭くなるようなことのないように、人道をぜひつくってくれ、橋を見にくる人のために人道をつくってくれということでしたけれども、それはお断わりをして、片側三車線ということでつくっていただいたのです。つくっていただいて、それからそれに続きます北九州道路が、まだ縦貫道路はできておりませんが、八幡の末端まで通じまして、引
関門大橋が中国縦貫道路、九州縦貫道路をつなぐ高速道路の一部としてかけられたことは、私も知っております。しかし、せっかく橋ができて――若戸大橋ができましたときには、若戸大橋に何万という人が見に来ました。それからその次は、パールラインというか天草五橋ができたらそこに移りましたけれども、天草五橋にもずいぶんたくさんの人が集りました。せっかくできた関門大橋にたくさんの人が来るだろうというのは、下関も門司も期待を持ったところなんです。北九州市も期待したところなんです。それが、せっかくできたのだけれども、先般の連休やなにかのときにはさっぱりだったというのは、道路公団としてもやはりそう喜ぶべきことではないでしょうし、それから私どもとしても望むとこ
北九州道路の区間別の方法もございますが、せっかく百円であったところのものを、同じ区間を百五十円に上げぬでもいいじゃないかということについては御答弁がございませんでしたが、国道であるということが一つ、外国には例のない話だ。それから北九州道路のほうについても現実に、関門大橋ができる前よりも少なくなったことは事実です。これは通過客の数を見られたらわかります。そこで、北九州道路の問題についても、前よりも目に見えて落ちるような料金の計算方法は改定したらどうかというのが一つ。 それからもう一つ、あなたは通過客のことを言われますけれども、正直に言いますと、回数券を買ったら百五十円が百円になるのです。そこで、ほとんど毎日使うような大きいところは
断わりの説明ばかりですが、断わりの説明を聞こうとは思っていないのです。 もう一つ、それでは比較する意味でお尋ねしますが、北九州道路の黒川から引野まで通算をいたしますと幾らになりますか。それから羽田から有料道路があります。羽田からこの辺を通っている有料道路、あれは終点まで均一料金を取っております。それから大阪の御堂筋から伊丹の飛行場まで行く道路があります。あの有料道路の料金は幾らですか。それぞれひとつ教えてください。
総計でキロ幾ら。計算方法はもらっている。
黒川から引野までの数字をあげてください。
羽田からは。
それから御堂筋から伊丹まで。
これは建設大臣にお尋ねしますが、距離からいいますと大体似ております。むしろ羽田からこっちは渋谷かどこかだったのが最近延びましたね。延びましたのでも料金は同じです。やはり二百円です。私どもにするとこういう感じがします。何でも東京、大阪はこれで言いますと二百円。これは、さっきキロ当たり幾らという計算をしましたけれども、キロ当たり計算をしてそうなるのかどうかは知りませんけれども、北九州道路のほうは、だんだん長くなってきたということでプラスしていって三百五十円。そしてあとから回収をするから高くなると言いますが、それは私は建設省も道路公団も見込み違いだと思うのです。あれが黒川から富野という小倉のまん中近くまで完成しましたのは、三十七年か八年か
若戸大橋は切符を買っての実情まで申し上げて、そのほかに、さっき申し上げましたけれども、若戸大橋ができて若松、戸畑というのは地盤沈下といいますか、著しい下降、荒廃化といいますかをしておりますだけに、政策的に考えなければならぬ実情にありますことも申し上げた。ですからそれを政治的に配慮はできぬかということをお尋ねしたわけです。 北九州道路のほうは、計算方法ではありませんが、いま羽田からの道路のことを言われました。それは、いまの物価高あるいはインフレ下において公共料金を押えておられますが、この道路の料金が上げられるかどうかという問題です。それから北九州道路のほうは、その後の建設費が高くなったからということでいままでよりも高くなるという。
宮内庁から資料をいただきましたのに関連をして、お尋ねを保留しておりましたから、時間がございませんから、特別に御了解を得て、十分か十五分で終わるということでやりますから、一ぺんにお尋ねをいたします。答弁も、なるべく簡単にお願いしたいと思います。 天皇は、人間宣言をされたんですから、神様でなくて人間になられたと思います。憲法のたてまえも、国民主権の原則に立って、象徴である天皇の地位は、主権者である国民の総意に基づくと書かれております。したがって、人間になられた。そうすると、憲法の条章、国民の権利義務を規定しております第三章は、法律に特別に規定のある場合を除いては、精神的には適用されるのではないかと考えられますが、いかがでしょうか、そ
皇室経済の問題に関連をしてお尋ねをいたしますが、総務長官は、あるいは御存じないかもしれませんけれども、私は、福岡県選出の衆議院議員ですが、前に、参議院議員を十三年、副議長もいたしました松本治一郎という先輩がございます。たいへん、その近くでいろいろ指導もいただきましたし、また影響も受けています。この松本治一郎という人は、全国で三千部落、三百万の未解放部落の部落民の解放のために、その生涯をささげました。 で、戦前から、あの福沢諭吉さんが言われました、人の上に人をつくらず人の下に人をつくらずということを彼も信条といたしました。そして、この未解放部落の部落民、その生涯をかけて解放のために努力をした未解放部落の部落民は、いわば身分差別を受
この間からの質疑を聞いておって、やはり皇室の尊厳あるいは紀元の問題についても、総務長官は厳粛な問題と言われました。のぞくべからずではございませんけれども、ああいう考えを聞いておって、やはり干犯すべからずという、明治憲法のことばを思い出し、知らず知らずの間にそういう考えになられるのではないかといった感じがするのです。 これは、前にも聞いたことがございますが、ちょっといま見出せませんけれども、「帝王と墓と民衆」という三笠宮殿下の御著書がございます。偶然このごろまたある雑誌がこの本を引き合いに出して、三笠宮とだれかの対談がございました。今月号に載っておるのですが、そこで私ども、やはり同じように、この本もときどき引き合いに出るなという感
いま、言われました事件が起こってから云々というのは、今月号の雑誌に書いてある。本の中にはそれはございません。もう一ぺん読む必要はないと思いますが、「終戦後わたくしの生活環境は激変した。が、わたくしは楽しかった。三十になってたった一人で町をあるく楽しみをはじめて知ったわたくしは、運命のふしぎさをかみしめながら、だれにも気づかれずにコツコツと町をあるいてみたものである。」云々、これは歴史研究、特にメソポタミア文化についての勉強、オリエントの歴史を勉強するに至った経緯が書いてある。雑誌には、そういうことは書いてございません。 そういう経過あるいは事件警戒ということもございますが、問題は、本質的に旧憲法時代の天皇を人間天皇として、象徴天